蕎麦数彦さんの新作、『包羞忍恥』を読みました。
花丸勇作という、ガチムチ、ゴウモウ、ホウケイの青年が主人公で、絵画教室のモデルを頼まれたことから、性癖を自覚・回想し、少年期に出会った、ふたりの同性、ひとりは空手塾の師範、ひとりは空手部の先輩と、花丸を含めた、それら、体育会という名の下剋上社会のなかで、煩悶しつつも、その性癖を開花させていく、といったテイの成長物語です。
さらに、物語は、社会人となった花丸の上に、その上司や部下をも巻き込み、開いた花の爛熟を見せますが、そうした、花丸の「性癖」によってもたらされるのは、何も、「羞」や「恥」ばかりではない、ということを、それらの語義をもって、これまた、自覚し、やがて、本当の愛を開花させるのです。
というのが、私が、本作から促された、「さわやかな啓蒙」ですが、そのことは、作者の意図とは明らかに違う次元での読み、であるとの反省を促されもしました。
なぜなら、『包羞忍恥』は、「成人向けゲイ小説」であり、平たくいえば、ポルノなのです。
「こうしたポルノグラフィーが、性神話(セックス・ファンタジー)の名のもとに書かれていることにおいて、とりもなおさず、それは、男根中心の神話であり、「エロ」本とは「相手のない」「刺激にすぎない」「孤独なものであって、その孤独なものがたまたま二者でもって、……すり合わせをおこなうわけ」なのだから」(菫太郎「作者は誰?」)
つまり、シコれる! とのそれが、こうした、「ポルノ」に対する最大の賛辞なのです。
性神話(セックス・ファンタジー)のヒーロー、「花丸勇作」は、また、「ガチムチ、ゴウモウ、ホウケイ」といった、斯道(この)世界における、三種の神器の保持者であり、このことは、
「ほんとうにこの世界で、肉感以外の感動はみんな嘘でしょうか?」(三島由紀夫「禁色」)
と尋ねる『禁色』(ホモ文学の古典!)の主人公、南悠一のそれに、本作を読んだあとでは、「諒(りょう)」というよりほかはないでしょう。
と書いたところで、私は、何も、「この世界」に存在する、「感性の密林」の全容を明かしたいわけではありません。
「本作から促された、「さわやかな啓蒙」」が、「作者の意図とは明らかに違う次元での読み」であることの、それを感じざるを得ない、「肉感(フェチズム)」や「擬音(オノマトペ)」に対したとき、「理性」という名の鉄壁を感じたのは、そうした「性癖」が、もとより、私にはない(スリキン・サイモウ・ズルムケ ◎)からであり、同じものを愛する、エゴイストの愛情の公理を、そこに見出すことが出来ないからなのです。
ようするに、わたしには、帰省中の長い車中で、ひと目を憚らず、蕎麦数彦さんの「ポルノ」を読む、自信がありました。
しかし、その復路で、終盤に差し掛かった物語の一文を目にしたとき、私にも来すリビドーのあることを、感じてしまったのです。
「花丸と沢良木は求め合った。もう何度目かもわからなくなった射精の後だった。」
というそれです。
思えば、私のヰタ・セクスアリスは、中井英夫の「炎色反応」を読んだ、十代の頃に始まります。
どうやら、私の「肉感(フェチズム)」は、追憶の明確さのほうにあるらしいのです。
欲望による喚起力も、その性欲的生活も、こうした、「追憶」によってもたらされる、といえば、ロマンチックに過ぎるでしょうか。
それはさておき、「猥本」です。
「私のヰタ・セクスアリス」は、さらに、廣橋梵(龍膽寺雄)の「閨鬼」と、作者不詳の「猟奇倶楽部」を読んだことに続きます。
ことに、「作者不詳」の作者像を、谷崎潤一郎とする私の妄想! は、主人公、ジョンが、二十四歳の設定で、作者は当時、二十五、六歳であり、一九二五年には三十一歳で、その青年期が、大正期と重なっていることにあります。
そこから生年を割り出すと、明治二十七年となりますが、当の谷崎の生年は、明治十九年ですから、本作の、江戸艶本のなごりをとどめる台詞回しや、すべてがブキッシュである点から、あるいは、もっと上であるかもしれない、とするこちらの推察にも合致します。
ともあれ、想像し得る作者像としては、換骨奪胎の才があり、演劇に関わり(谷崎が大正活映のために、『アマチュア倶楽部』を書き下ろしたのは大正九年)、地誌類を原書で読み得る人物と見ますが、どうでしょう。
「蕎麦数彦さんの新作、『包羞忍恥』を読んだ」感想が、はからずも、「私のヰタ・セクスアリス」を語るハメになろうとは。
が、ゆえに、本作が、正しく「猥本」であることの道義を、語ってもいないでしょうか。
おしまい。
*文中、蕎麦数彦さんの『包羞忍恥』より、本文ページの一部を転載させていただいたことを、付記します。