ビルの竣工は、昭和33年と聞きます。
日本が、高度経済成長期に突入し、いわゆるビル・ブームが起こった頃の建築物で、
「当時の建築基準法に準拠し、高さは制限いっぱいの31m。 50×200mの細長い敷地に、容積率1,000%で建設された巨大ビル」
であると、AIはいっています。
そんな、レトロ建築の全容を知る遥か昔、地下鉄のコンコースは、さながら、ラビリントスであり、細い通路の角から、ミノタウロスに出くわしはしまいかと、テセウスよろしく戦々恐々と、その混沌とした食堂街を通過したものでした。
それが、大人になったいま、自身の胃袋を満たす食道街になろうとは、ゆめゆめ思いもしないことだけれど、その日々通い慣れたある食堂の前で、トラブルは生じたのでした。
「ご注文は?」
と入店前の列に並びながらのそれに応えてほどなく、
「どちらの列に並べばいいですか?」
とあとからきた一群に訊かれ、さらに、ふたたび、注文を取りにきた店員に、
「どこまでですか?」
とその分岐点を訊かれ、ココマデ〜! と手のジェスチャーで、あとからきて別の列に並んでいた客を、これまでの習慣と道徳のうちに、本道から分断すると、その列をあぶれた客は、すでに長蛇となっている、本道の最後尾に着きました。
「本道」というのは、「日々通い慣れた」私の「習慣と道徳のうち」に、決めたことであり、「道徳」というのは、食堂がひしめく通路において、他店の前に列を作るな! といった、それのことです。
ようするに、列の分岐点にいた私の「道徳」が、
「ココマデ〜!」
とモーセの十戒よろしく海を割った、その奇跡というかエゴで、間道に(他店の前に列を作って)いた客を、従わせたときの爽快感といったらありませんでした。
さりとて、「道徳」という名に着せた、「エゴ」であることに違いはなく、昼食を終えたあとの業務中、はたしてそれでよかったんだろうか? といった疑念が、頭の片隅に残りました。
結局、トラブルにはならずに、いつか、同僚と、この食堂を訪れたときのゴシップくらいにはなるかな? と前日の「疑念」は、笑い話の一つにオチようとしていました。
近所のストアでのひとコマ。
ホーク並びの間道に並んでいた婦人は、本道に並んでいるものと、スマホに見いっていました。
「どうぞ!」
とレジの声があり、間道から進もうとする婦人を制して、本道に並んでいた私に、声がかかりました。
「先に並んでいらしたから、どうぞ」
と婦人を促す私。
自身への「疑念」が、思わぬ展開で晴れた気がしました。
私にとっての、この場合の「道徳」とは、本道・間道の隔てなく、存在に対する、意義を無視しないことだったから。
おしまい。