回収

ビルの竣工は、昭和33年と聞きます。

日本が、高度経済成長期に突入し、いわゆるビル・ブームが起こった頃の建築物で、

「当時の建築基準法に準拠し、高さは制限いっぱいの31m。 50×200mの細長い敷地に、容積率1,000%で建設された巨大ビル」

であると、AIはいっています。f:id:sumiretaro:20241027095401j:image

そんな、レトロ建築の全容を知る遥か昔、地下鉄のコンコースは、さながら、ラビリントスであり、細い通路の角から、ミノタウロスに出くわしはしまいかと、テセウスよろしく戦々恐々と、その混沌とした食堂街を通過したものでした。

それが、大人になったいま、自身の胃袋を満たす食道街になろうとは、ゆめゆめ思いもしないことだけれど、その日々通い慣れたある食堂の前で、トラブルは生じたのでした。


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「ご注文は?」

と入店前の列に並びながらのそれに応えてほどなく、

「どちらの列に並べばいいですか?」

とあとからきた一群に訊かれ、さらに、ふたたび、注文を取りにきた店員に、

「どこまでですか?」

とその分岐点を訊かれ、ココマデ〜! と手のジェスチャーで、あとからきて別の列に並んでいた客を、これまでの習慣と道徳のうちに、本道から分断すると、その列をあぶれた客は、すでに長蛇となっている、本道の最後尾に着きました。

「本道」というのは、「日々通い慣れた」私の「習慣と道徳のうち」に、決めたことであり、「道徳」というのは、食堂がひしめく通路において、他店の前に列を作るな! といった、それのことです。

ようするに、列の分岐点にいた私の「道徳」が、

「ココマデ〜!」

モーセ十戒よろしく海を割った、その奇跡というかエゴで、間道に(他店の前に列を作って)いた客を、従わせたときの爽快感といったらありませんでした。

さりとて、「道徳」という名に着せた、「エゴ」であることに違いはなく、昼食を終えたあとの業務中、はたしてそれでよかったんだろうか? といった疑念が、頭の片隅に残りました。

結局、トラブルにはならずに、いつか、同僚と、この食堂を訪れたときのゴシップくらいにはなるかな? と前日の「疑念」は、笑い話の一つにオチようとしていました。f:id:sumiretaro:20241027095459j:image

近所のストアでのひとコマ。

ホーク並びの間道に並んでいた婦人は、本道に並んでいるものと、スマホに見いっていました。

「どうぞ!」

とレジの声があり、間道から進もうとする婦人を制して、本道に並んでいた私に、声がかかりました。

「先に並んでいらしたから、どうぞ」

と婦人を促す私。

自身への「疑念」が、思わぬ展開で晴れた気がしました。

私にとっての、この場合の「道徳」とは、本道・間道の隔てなく、存在に対する、意義を無視しないことだったから。

おしまい。

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