爽風

とにかく、自分という上官の命令が厳しくて、年度末までの繁忙期は、エスケープしたい気分でした。

もうすぐ、農閑期! 否、新年度!

との鼓舞は、桜の開花を待つワクワクとした気分へとかわり、しかしながら、いまいち冴えない天候に、その「気分」もアップダウン。

それでも、膨らむ春への期待は、ようやく、開花した桜とともに、もたらされた、かに思えましたが、春に三日の晴れなし。

とはよくいったもので、そうした、「気分」の「アップダウン」を、しかし、「冴えない天候」のせいにしてしまってからが、早かった。
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「冴えない天候」のうちにも出かけたのは、横浜・関内であり、これも、出かけたのは、繁忙期にはいる直前以来、半年ぶりにもなりましょうか。

かくして、出かけた先で、一等楽しみなのが、来々軒でいただく、味噌オロチョンであり、開花した桜とはいえ、その日は、花冷えの一日。

いつもなら、

「4倍で」

と「普通の辛さ」で注文するそれながら、こんな寒い日には、とばかりに、

「6倍で」

と注文。

辛かった、旨かった、温まった、と思いっきったかいがあった、というものです。f:id:sumiretaro:20240407144345j:image

そんな、ホットな「気分」のままに、これも、関内逍遥のルーティンとなっている、「来々軒」とは目と鼻の先にある、古書店へ。

石原慎太郎の『太陽の季節』(再版)が、珍しくもなく、しかし、帯付きの元パラで、棚にささっていて、引き出したところで、

「それ何?」

といきなりかけられた声ながら、完本であったことの嬉しさから高じた、元パラパラ・ダンスのほうに気がまわり、これに無言で照れ隠し。

背表紙を、そのひとに向けて、これに応えると、誘導尋問よろしく、しかし、応える義務のない、文学立話となりました。

「学生の頃は」

とのエクスキューズは、もちろん、衒いで、

三島由紀夫とか」

などとのそれも、愛敬です。

「陰翳礼讃ね」

(「いやいや、違げえーから」)

と間髪をいれずに、こころのなかで応えてからが、早かった。

ようするに、胡散臭いのです。

しかし、そのひとの主語がない語りに、清々しさを感じたのは、確かです。

むしろ、主観で応えようとしていたのは、私のほうであり、その応える義務のない、それを「誘導尋問」ならしてめていた、自分に気づかされもしました。

つまり、「自分という上官の命令が厳しくて」という、アレ(エゴ)です。笑

そんなことを考えているうちにも、数冊抱えているそのひとに、

「何それ?」

と逆に、買ったものを訊いてみようと、こちらも、慎太郎の一冊と気になるそれを持って、帳場に行こうと隣を見たら、抱えていた数冊の本を置き去りに、そのひとの姿だけがありませんでした。

「ただの賑やかしか?」

皆目見当がつきません。

店を出ると、一陣の風が、爽やかに吹き抜けました。

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慎太郎の一冊とともに買った、「気になるそれ」というのは、

「碧眼の反逆児 天草四郎

とタイトルされた、歴史小説であり、それを書いた作家の来歴のほうに、関心がいったのですが、そのことは、また、いつか書きますね。(書かんけど w)

 

 

 

 

 

 

 

調理

切らした調味料を買いに近所のストアまで。

大型ストアの簡易店舗といったそこでも、一つの調味料に、三つくらいのブランドのそれが揃っていて、一番安く、かつ、簡易装のものを選びました。

「たしか、IKEAで買った、ソルト・ペッパホルダがあったはず」

とのそれを思い出したからです。

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(画像は、鎌倉に住んでいた頃、贔屓にしていた、焼き菓子店の紅茶<アールグレイダージリン>の空缶を代用)

といって、私は、IKEAの良い客ではありません。

たまたま目にした「ソルト・ペッパフォルダ」の佇まいが気にいって、買ったまでのことです。

そうした観点で、調味料をいれる器を見ていったとき、それの最高峰にあるのが、MUJIの醤油差しであり、このデザインありきの、使い勝手の悪い器を、20年近くも持ち続けているのは、やはり、食卓に置いたときの「佇まい」が、美しいからなのです。f:id:sumiretaro:20240331095253j:image

瓦斯・電気レンジがない我が家。

長らくの自炊生活も、都心に移り住んだことで、外食生活へと、その環境もかわり、そうした、丁寧な暮らしからも遠退きました。

自分でいうのも何ですが、私は、丁寧であり、そういうひとの暮らしを、「丁寧な暮らし」というのなら、ことさら、そのことを揶揄したりは、出来ないでしょう。

といって、「丁寧な暮らし」と、なかば、嘲笑的につかうことは、ままあるのですが。笑

それはともかく、「調理」です。

年の始めに、再稼働させた、調理機器を使い、雑煮をつくったことが、「調理」復活の事始め。

以後、カセット式コンロで、さまざまな鍋をつくり、いまは、オーブントースタで、つくるホイル焼きに、ハマっています。f:id:sumiretaro:20240331094907j:image

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そんなさなか、店舗に調理機器を見に行きました。

卓上で使えるホットプレートやクッキングプレートなどが、目に止まり、

「料理の幅も、さぞ、広がるだろう」

と思ったものの、我が家には、換気扇がありません。

昨年夏、箱型のそれが、突然、落ち、その通風口は、私のなんちゃってDIYにより、塞がれているのです。

とはいえ、「料理の幅」は、煮炊きから焼き物へ。

季節が変われば、熱を使わずに出来る「調理」も、その幅を広げることでしょう。

インスタグラムの「丁寧な暮らし」界隈から、一転、全自動による調理機器に囲まれた暮らしもあって、度肝を抜かれましたが、私には、前者の暮らし向きが心地良い。

だって、制限のなかで、暮らすことは、いかに、脳みそw を使うかにかかっていて、そのことが、楽しくないことは、まず、ないからです。

おしまい。

懇親

秋分の日を境に夜が長くなっていき、春分の日を境に夜が短くなっていく、それぞれの最たる日が、冬至夏至で、私にとっての繁忙期は、夏至から秋分冬至から春分であり、農閑期は、夏至冬至にいたる、秋分春分の起点からの、それぞれ二か月。

簡単にいえば、年二回の決算(3・9)月の翌々月から繁忙期にはいり、それ以外の四か月は、農閑期となります。

そんなわけで、こんしゅうの真ん中、水曜日は、春彼岸の中日であり、そうした、繁忙にあった期間の報告を墓前ですると、きのうは、同僚とのお疲れさま会で、互いが労をねぎらいました。

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都心の各繁華街に店舗を持つ、「日本酒原価酒蔵」。

その酒舗の本店で、「飲み放題コース」を、同僚のセットで楽しみました。

酒舗のサイトのAbout Meには、

 

 50種類以上の日本酒が「原価」で飲める日本酒専門居酒屋。

 

とあり、記憶違いでなければ、開店当初、行ってみたい! と思っていたその酒舗への来店が、はからずも、同僚のセットのうちに叶ったということになります。

かつ、寒さも彼岸までとはいいがたい、それを過ぎた週末(きのう)は、真冬並みの寒さで、コートにマフラを引っ張り出して着、でも、こんな日でもなければ、燗酒によせる酒舗への期待もなかろうと、朝から夜が楽しみでした。

そんなこんなで、酒舗での「飲み放題」(二時間制限)は、猪口に二杯半はいる分量の小瓶を、一回に二種類頼み、ふたりでシェア。

スマホ(で注文)片手に、

「つぎ何飲みますか?」

とあいた小瓶に目をくばせ、メニューとスマホと箸の先しか見ずに、黙々とモトを取りにいった、デキる同僚のリードで圧勝!

小瓶をあけないと注文出来ないルールで、モトを取るとなると、やはり、飲み続けるしかなく、それでも、昨夜は、すこぶる体調が良かったものか、都合、八銘柄(約半升)飲んで、コース料理もいただきました。

繁盛(半升)とのご愛敬も忘れずに。笑

私からの目線を外し、「スマホ(で注文)片手に、つぎ何飲みますか? とあいた小瓶に目をくばせ、メニューとスマホと箸の先しか見ずに、黙々とモトを取りにいっ」ていた同僚とは、ようやく、〆の喫茶店でまったりモードになりましたが、先の酒舗でのミッションは、時間内にどれだけ多くの銘柄を飲めるか、という、まあ、ゲームのようなものでしたから、そういうのが好きな男の子 w らしく、同僚の本性(良い意味で)を垣間見れた、お疲れさま会でもありました。

私は、といえば、

 

「ちなみに、きょうは、ブルージーンズとデニムシャツ wで行きます。
イメージとしては、平成初期といった感じかな。笑
ドレスコードあり、がいいなあ。」

 

とこんな調子であり、


ドレスコード? 私は暖かい格好にします。

では、今夜。」

 

とつれない? 同僚のLINEは、でも、さり気なく合わせてきてくれた、その「ドレスコード」に、ご満悦。

先の酒舗でのスタッフから、案内されたカウンター席に、躊躇していた私たち。

何を思ったか、

「男同士で横並びはイヤですよねー」

とのスタッフのそれにも、

「そんなことはありませんが」

とさり気なく伝えた同僚の態度に、むしろ、私のほうが気後れしてしまったほどであったが、〆の喫茶店でのスタッフから、案内された喫煙室のテーブルについたとき、

「女性とはくるけど、男同士では」

と周囲の男女のカップルに、気後れしてしまったかの、同僚の本性(良い意味で)を垣間見たとき、私の性感を、走る何かがあったことを、記しておきます。

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年輪

「海の中の探偵に問う、少年の屍(し)が桜貝に変じた謎を」

 *森島章人歌集、『月光の揚力』収中、この一首より創を得たことを附記します。

 

とは、拙「作品集成 I」所収、「櫻色手帖」の最後の一行と、それの注釈です。

この歌を詠んだ、歌人、森島章人さんには、拙著「夕化粧」に帯文を書いていただいたのですが、その馴れ初めが、どうにも、思い出せません。

第一歌集、『月光の揚力』を買い、巻末に付された住所に、手紙を宛てたのか、はたまた、私宛に歌集をご恵投いただいたのか、そのかみの、イギリス人教師「セシル・ブロック」のごとく、

 

 すべては、ブロックの夢想を促す、「青春の生国(しょうごく)」での出来事

 

のようでもあります。

ところで、その拙「作品集成」に、「解題」を書いていただいている、Kさん(下のお名前で呼んでいる)と、私の生業が、年末年始・事業年度末が繁忙期にあることから、新年会ならぬ新年度会をひらくその前に、これも、互いが趣味の一致から、きのうは、東京古書会館で催されている、古書展に立ち寄ってみました。

ひさしぶりの「古書展」でしたが、いつもなら、ひとりで赴き、会場の棚を二見し、取りこぼしを回収、後ろ髪惹かれたものは二日目(があれば)に、というのがそこでのルーティンですが、なあに、友人同伴で、漁るほどの書痴でもありますまい。

そんな、冷やかしで廻る一見目のさなか、

「面白いもの見つけました!」

とKさんに見せてもらったのは、ビニール袋にはいった薄い冊子であり、

「血の香 第賛号」

とタイトルされた、黒いカバーのそれで、

「えっ!!」

と声出ちゃった! のは、その冊子が、先の歌人、森島章人さんの「個人誌」? だったからでした。

「蘭精果の名もあるから、もしかしたら、この○○○○(失念)も、森島さんじゃないかしら?」

とそうした「個人誌」あるあるを、棚に上げつつ、Kさんの抜きっぷりに、「書痴でもありますまい」との、私の衒(てら)いは、いつしか、二見目の足を、棚に向かわせていました。

(負けず嫌い w)

湯川書房の美麗な特装本や長谷川敬(赤江瀑)の詩が掲載された詩世紀など、Kさんの抜くそうした本と、私が目に止める本との差異を、その年齢差ほどにも感じながら、ふと、我が「青春の生国(しょうごく)」に思いを馳せました。

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ところ移って(シンガポール料理店での一次会から)、地元サイゼでの二次会のこと。

「僕の歳の頃、何されてました?」

とKさんに訊かれ、

「新卒の会社を三年で辞めて、腰掛けのバイトしながら、運転免許取りに教習所通ってたかな。小遣いにしかならないバイトだったから、実質、実家でプー太郎だね、あはは」

との我が「青春の生国(しょうごく)」の表層を話つつ、その頃の文学趣味が、いまのKさんのごとく、

 

 バラであるからこそ存在価値がある

 

それであり、

 

お腹の空いた犬にバラの花を与え

 

られても、それは、食(使)えるのか? と自問する、いまの私でないことは、確かです。

とはいえ、そうした私の吟味も、Kさんに「解題」を書いていただいている、拙「作品集成」の根本といえるもので、「私が目に止める本との差異を、その年齢差ほどにも感じ」るのは、あるいは、年輪といえるものなのかもしれません。

「年は取りたくないね」

とは、まったく、ご愛敬ですね。笑

女子

「女の子だったら、パンツ↗なんて、ぜったいはかないわ」

と他意なく言ったことがあります。

いやいや、「他意」ありありでしょ。(と自答)

「女の子」、「パンツ」、「ぜったい」、「はかない」、などと挙げてみたところで、私の言った「他意」は、偏見に満ちています。

ところで、衣料品大手「H&M」の「キャンペーン広告に「女児の性的対象化につながる」といった批判が集まり、広告を削除・謝罪する騒動」がありました。

SNSでフィードされてきた、その画像を見たとき、「シャイニングっぽいな」と思い、「ダイアン・アーバスの双子っぽいな」と思いました。

そうした観点から、この騒動を賑やかす向きもありましたが、公共が問題にしたのは、

「「自身の性的魅力を気にする主体」として女児を描くことが、現実社会における性差別や児童虐待との関係でどのように見えるのか」であり、「広告を作るという行為自体が社会的行為であ」る以上、「作品が社会から切り離されたところにあるわけではないという点」でした。

SNSを通じ、こうした広告の「炎上」を目にすることはままありますが、「性的である」といった批判に対するそれが、「表現の自由」といった構図をとって、

論議→拡散→削除→謝罪

で、やがて、別の話題がフィードされて、おしまい。(問題提起だけが残される)

そんななか、私が思った、

ダイアン・アーバスの双子っぽいな」

から、この写真家、あるいは、被写体の「双子」について、

 

 この写真はアーバスのビジョンを総括する作品だとされている。

 

とのそれを知り、

 

 彼女はアイデンティ問題に悩んでいた。私はだれ、あなたはだれ?と。この2人のイメージはそのアーバスのビジョンの核心で、異常性の中の正常、正常の中の異常性を表している。

 

と書いた、伝記作家の存在を知りました。

私が、

「女の子だったら、パンツ↗なんて、ぜったいはかないわ」

と他意なく言ったのは、その「女の子」がはいていたスカートが、似合っているとの反語であり、「女の子だったら」「スカート」をはいてみたい、との羨望であったのかもしれません。

つまり、「異常性の中の正常、正常の中の異常性を」自分のなかに発見した瞬間でもあった! などと書くとを語弊を生みかねない。

(多様性云々については、ここでは、さておく)

だって、「女の子」になりたいなどと、思ったことは、一粍もないのだから。

 

同僚(後輩)のふたりの「女の子」たちを、下の名前で、〇〇さん、〇〇さんと、呼んでいます。

許可をもらったうえで、ではありますが、彼女らの真意(そう呼んで良かったのか)はわかりません。

たまに、〇〇さんと〇〇さんがごっちゃになることもありますが、そのときの反応を見るかぎり、まんざら、「そう呼んで」差し支えなかったとも思えます。

そうした、「女の子」たちと、日々、接しながら、私の「「女の子」になりたいなどと、思ったことは、一粍もない」とのそれは、けっして、なりようのない、「女の子」という存在からの拒絶であった! 一事に出くわしました。

「〇〇さんからすすめられたアプリで、LINEのスタンプつくるやつ」

と、いまひとり〇〇さんにすすめてみると、

「私もつくりました」

と見せてもらったそれが、まごうことなき「女の子」の手(感性)によるもので、ふと、最近、SNSのフィードで読んだ一文を思い出しました。

 

「猫の倫理はいわば無私の利己主義である。自分と自分の愛する者のことしか考えないという点では、猫は利己主義者である。自分のイメージをもたないため、それを保存・拡大しようとは思わないという点では、無私である。」(ジョン・グレイ著、鈴木晶訳『猫に学ぶ』みすず書房

 

女の子、ことに、女の子の猫には、敵わない、と。

*ここでいう「女の子」は、フィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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衣服

冬期のワードローブといえば、フリースであり、「フリース」といえば、ユニクロです。

そんなわけで、いま着ている「フリース」のタグ(ケアラベル)を見ると、

 

000-XXXXXX(84-00)

 

と、なっていて、つまり、

 

8…製造年(2018年製) 

4…季節 1春2夏3秋4冬

 

ということがわかり、三着ある「フリース」に限っていえば、六年も新調していないことがわかります。

「あの「フリース」とこの「フリース」とその「フリース」の、きょうは、どの「フリース」を着よう?」

とは、冬期の日々のルーティンでもあります。

「フリース」を新調していなかった六年の間に、コロナ禍があり、卑近でいえば、断捨離がありました。

2DKの我が居の八割を領していたのが、書物であり、次いで、衣服でした。

捨てられない「書物」は置くとして、「衣服」は、これも、八割方を捨ててしまうと、そこに、拍車がかかったものか、コロナ禍中にあった当時は、断捨離! 断捨離!断捨離! と、白熱したものでしたが、いまは、捨てられない「書物」の三割を、古本屋に引き取ってもらい、残りの「書物」をどうしたものか!? と、考えあぐねています。

ところで、私は、「「フリース」に限っていえば、六年も新調していない」といいました。

つまり、三軍の「衣服」のことであり、一軍にもなり得る、パンツ↗ を求めて、こうした、ファストファッションの殿堂たる、「ユニクロ」を、昨日、訪れ、あれこれそれどれ、とのフィッティングの末に、目当てのパンツ↗ 、なかんずく、デニムのそれを、無事、ゲットするにいたりました。

それにしても、

「フィッティングさせてください」

との挨拶に、

「はーい、こちらをお使いください」

との女性スタッフの愛想は、私の「あれこれそれどれ」との吟味! に、やがて、口早に、その応対もつれなくなっていきました。

「ま、そりゃそうだ!」

とはいえ、「あれこれそれどれ、とのフィッティングの末に」、ゲットした「目当てのパンツ↗ 」がために、我が居のクローゼットの中身を、冬物から春物へといれ替え、吟味の一本のおかげで、六本ものパンツ↗ を捨てらたことは、我ながら意を得たものでした。

それにしても、捨てられないのは、一軍の「衣服」であり、そのブランド(ムジラボ)の変遷史を、デザインと見る、こちらの、価値観のほうなのでしょう。

とりとめもない話です。

おしまい。


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認知

「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」(『善悪の彼岸』)

とは、ニーチェの名言であり、現代にも通じる哲学をはらんだそれであることは、例えば、

「深淵」

を、

スマホ

に変換してみても、容易に察しがつくでしょう。

つまり、レコメンデーションとは、それを覗く個人にしか機能せず、そうした、情報という名の「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。」(『善悪の彼岸』)とは、私自身への戒めでもあるのでしょうか。

いずれにしても、「スマホ」を覗いている時間は長く、ことに、「エックス」や「インスタ」にアカウントを持って以来、その間の世界は、そうした、SNSにしか開かれておらず、そこで得られる「情報」が、私自身の認知の一つを形づくっているとしたら、それのアンチたる認識、つまり、メタ認識(客観視点)を持たねば、自らが「怪物」と化すのも、時間の問題といえるでしょう。

ところで、「インスタ」に、「リール」(というショート動画)があり、ここ数日、フォロー外の若いゲイのそれが、上がってくるようになって、その残念な顛末に、内心ほくそ笑んでいる自分がいて(これこそが、怪物!)、「残念な顛末」にいたる、動画の筋から目が離せません。

いわゆる、「マッチングアプリ」で知り合い、ことばのやり取りを経て、実際、会ってみると、、、から、「残念な顛末」にいたる、主観視点からの「リール」です。

この全勝全敗の、若いゲイの「リール」を遡りながら、

「なんと、まあ、クローゼットなことか!」

と思ったものです。

まず、先方のスペックと職業のキャプションを上げ、「ことばのやり取り」のなかで得られた「主観」をもとに、呼び名を付し、先方を、その「呼び名」でもってこき下ろしたあと、

「to be continued」

で締める。

先方は、このことを知っているのでしょうか? と場所や人物こそ上げぬものの、衆目に曝している以上は、ゴシップであり、好餌でもあるのです。

だって、「その残念な顛末に、内心ほくそ笑んでいる」怪物!も、こうして、記事にしているのですから。

それはともかく、年末、タイと中国を旅行したという身内から、小ぶりの紙袋を渡され、こちらも、用意していた、これも、小ぶりの紙袋を渡しました。

お土産と贈り物との交換ですが、身内のそれは、予期していなかったことだけに、嬉しくもあり、また、贈り物を選ぶつかの間、身内に寄せたこころをも、回収出来た気がしました。

「あまり会ってなかったコロナ禍中(高齢のお母さまと同居ゆえ)は、べつのひとと(同僚)と隔月で飲み食いしてたよ」

と他意なく伝えるも、「情報」として得られたそのことに、まったく無関心な身内でした。

「情報」とは、受け取る側の「認知」によって、ゴシップにもなる、ということを、食卓に並んだアジアン料理の数々に、箸をつけながら、漠然と思ったものです。

ようするに、箸が転がろうとも、我々が、喜怒哀楽を示す(あるいは、示さねばならない)、時期は、とっくに過ぎているのです。

「to be continued」

で、つぎに行けない悲しみが、ここにあります。笑

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