「女の子だったら、パンツ↗なんて、ぜったいはかないわ」
と他意なく言ったことがあります。
いやいや、「他意」ありありでしょ。(と自答)
「女の子」、「パンツ」、「ぜったい」、「はかない」、などと挙げてみたところで、私の言った「他意」は、偏見に満ちています。
ところで、衣料品大手「H&M」の「キャンペーン広告に「女児の性的対象化につながる」といった批判が集まり、広告を削除・謝罪する騒動」がありました。
SNSでフィードされてきた、その画像を見たとき、「シャイニングっぽいな」と思い、「ダイアン・アーバスの双子っぽいな」と思いました。
そうした観点から、この騒動を賑やかす向きもありましたが、公共が問題にしたのは、
「「自身の性的魅力を気にする主体」として女児を描くことが、現実社会における性差別や児童虐待との関係でどのように見えるのか」であり、「広告を作るという行為自体が社会的行為であ」る以上、「作品が社会から切り離されたところにあるわけではないという点」でした。
SNSを通じ、こうした広告の「炎上」を目にすることはままありますが、「性的である」といった批判に対するそれが、「表現の自由」といった構図をとって、
論議→拡散→削除→謝罪
で、やがて、別の話題がフィードされて、おしまい。(問題提起だけが残される)
そんななか、私が思った、
「ダイアン・アーバスの双子っぽいな」
から、この写真家、あるいは、被写体の「双子」について、
この写真はアーバスのビジョンを総括する作品だとされている。
とのそれを知り、
彼女はアイデンティ問題に悩んでいた。私はだれ、あなたはだれ?と。この2人のイメージはそのアーバスのビジョンの核心で、異常性の中の正常、正常の中の異常性を表している。
と書いた、伝記作家の存在を知りました。
私が、
「女の子だったら、パンツ↗なんて、ぜったいはかないわ」
と他意なく言ったのは、その「女の子」がはいていたスカートが、似合っているとの反語であり、「女の子だったら」「スカート」をはいてみたい、との羨望であったのかもしれません。
つまり、「異常性の中の正常、正常の中の異常性を」自分のなかに発見した瞬間でもあった! などと書くとを語弊を生みかねない。
(多様性云々については、ここでは、さておく)
だって、「女の子」になりたいなどと、思ったことは、一粍もないのだから。
同僚(後輩)のふたりの「女の子」たちを、下の名前で、〇〇さん、〇〇さんと、呼んでいます。
許可をもらったうえで、ではありますが、彼女らの真意(そう呼んで良かったのか)はわかりません。
たまに、〇〇さんと〇〇さんがごっちゃになることもありますが、そのときの反応を見るかぎり、まんざら、「そう呼んで」差し支えなかったとも思えます。
そうした、「女の子」たちと、日々、接しながら、私の「「女の子」になりたいなどと、思ったことは、一粍もない」とのそれは、けっして、なりようのない、「女の子」という存在からの拒絶であった! 一事に出くわしました。
「〇〇さんからすすめられたアプリで、LINEのスタンプつくるやつ」
と、いまひとり〇〇さんにすすめてみると、
「私もつくりました」
と見せてもらったそれが、まごうことなき「女の子」の手(感性)によるもので、ふと、最近、SNSのフィードで読んだ一文を思い出しました。
「猫の倫理はいわば無私の利己主義である。自分と自分の愛する者のことしか考えないという点では、猫は利己主義者である。自分のイメージをもたないため、それを保存・拡大しようとは思わないという点では、無私である。」(ジョン・グレイ著、鈴木晶訳『猫に学ぶ』みすず書房)
女の子、ことに、女の子の猫には、敵わない、と。
*ここでいう「女の子」は、フィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。