自炊

都心に引っ越して以来、ホコリをかぶっていた、季節家電および調理家電の掃除&手入をし、15年までの経年にもかかわらず、ふたたびはいったスイッチに覚えた感動! は、こと、自炊に対するモチベーションを上げてくれ、年明けから一か月半の間、週末の三食と平日の夕食は、日々「自炊」が続いています。

といって、ウチには電気レンジおよび瓦斯レンジがありません。

しかしながら、復活させた「調理家電」には、オーブンレンジとカセットコンロとがあり、もともとある電子レンジも併用すれば、「自炊」など、屁の河童、なのでした。


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思えば、親元を離れた20歳の頃から、数十年の「自炊」歴があり、ゆえに、鎌倉住みの15年間は、住まいが山のなかにあった都合上、強いられた「自炊」でもあります。

都心に引っ越したからには、犬も歩けば棒に当たるのデンで、「自炊」などクソ喰らえ! とばかりに、三食外食(享楽ともいう)の日々、さらには、晩酌込みのそれ(酒池ともいう)であってみれば、体重増加も免れず、それによる中性脂肪はもとより、最近では、血圧の高さが気になり始め、脂質・塩分等、セーブするべく始めた「自炊」でもあります。f:id:sumiretaro:20240218104630j:image

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ところで、先週は、春一番を思わせる風が吹き、それがための気温の上昇と、立春このかた、三寒四温な気候に、

「終いの鍋」

と、その週末の夕食を、タラチリ・カキナベ、シャブシャブと、復活させたカセットコンロを、多いに活用。

ウチから、大通りを二つ渡ったところにある、24H ストアに、年末ぶりに行ってみると、これも、年末に飲んで美味しかった赤ワイン(メルロー)があり、そうした、年末の高揚?  も過ぎたいまとなってみれば、ドイツ産のそれより、チリ産の赤ワイン(メルロー)となるのが、日々のルーティンというものであり、それゆえ、ミラクルがないのが、「自炊」というものなのでしょう。

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そんな、「自炊」に暮れた、先週末から今週末。

昨日は、必要あって受診した眼科からの帰途、医院が繁華街にあるということもあり、沿線の友だちを誘ってお茶したあと、立ち寄った無印良品で、小一時間を過ごし、24H ストアに寄って帰宅しました。

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旗艦店の「無印」の、婦人衣料品売場以外を、隅々まで見て回り、このSEIYUのプライベート・ブランドとして、80年代初頭に数十品目からスタートした「無印」に、

「原点回帰してるな」

などと漠然と思いつつも、ゼロ年代初頭の「ユニクロ」の台頭に、立ち向かわざるを得なかった、価格競争。

「いやいや、紆余曲折あったと思うよ」

などとの感慨もひとしおでした。

「だけど、時流におもねらない、毅然とした無印良品が好き」

とのそれにいたったのは、レトルトの「カレー」です。

「カレー」は、「無印」の専売特許! といっていいくらい、クオリティが高いことは、つとに有名であり、価格帯も一食分、500円以下までと、そのクオリティからして、低コストといえるでしょう。

思えば、「80年代初頭」から「ゼロ年代初頭」を経て、40年強にもなる「無印」の、アーバンライフのありかたを追求してきた、このブランドのアーカイブを、これも、親元を離れた20歳の頃からの「自炊」歴と重ねて考えた、小一時間でもありました。

かつては、衣料品売場での買い物が多かった私ですが、やがて、生活品売場を経て、食料品売場へと、まあ、ひとしなみに、「生きる」ことへの執着が増してきたのでしょうか。笑

衣食住ではなく、衣→住→食です。

住まうことより食べることへのシフト。

これからは、ノマドでありたい私です。

建国

昨年の秋、沿線に住む友人の、新居を訪ねた折り、居心地の良いリビングルームの、ソファに対座しながら、見せてもらった書物の一つに、

須永朝彦の「滅紫篇」

があり、さらに、気にいったページがあると、つまびらかに示されたのが、

「縹、二藍、藍、紺、菫…」

と「繚乱と池水を彩」る「菖蒲」を描写した一文と、その色名でした。

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拙作に、「鴨頭草(つきぐさ)」という、折口信夫のことを書いた掌篇があって、そのなかで、

「群青、紅碧、瑠璃、紺青、そして、鴨跖草の色」

と書いているから、あるいは、須永朝彦のそれを盗用したのかもしれませんが、何ぶん、20年も昔の話です。

そのかみの折口信夫のことを、評伝/物語として書き始めたのも、昨年秋のことであり、沿線友を訪ねた前日には、第一部・第二部、と新作執筆・加筆修正を終えていました。

第一部は、「とりふね」

第二部は、「倭をぐな」

です。

前者は、新作執筆であり、後者は、加筆修正ですが、大幅に改稿しています。

詩社「鳥船(舩)」の創設から、それにかかわった弟子たちとの交流を、戦前・戦中の國學院における、学閥のなかでの先生とともに書いたのが、第一部ですが、さらに、愛弟子たる、「春洋」と「守雄」のことを第二部で克明に書き、戦後は、慶應における、学閥のなかでの先生を、これも、慶應の「康二」と「弥三郎」との交流のうちに書いたのが、第三部「たづがね」です。
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「守雄」というのは、『わが師 折口信夫』を書いた、加藤守雄のことですが、師匠から受けたパワハラおよびセクハラを、痛切な筆致のうちに書きつつも、多様に開かれていない当時の文壇に、一石を投じこそすれ、誰の得にもならない、そうした、加藤の駈込み訴えは、しかし、それを読む私の目に、勇気の書と映り、それゆえ、多様に開かれつつある、いまだからこその感慨を、もたらしもしました。

そして、第三部「たづがね」は、「守雄」の死後(もちろんフィクション!)、霊体となって現れた「守」という少年と、「春洋」もいない先生宅にはいった、「おっさん」(霊験あらたか!)こと、折口信夫の晩年を共にした岡野弘彦の、鳥瞰的な眼差しのうちに書いた、半フィクションであり、ファンタジーであるのかもしれません。

それら、「新版 倭をぐな」、第一部・第二部・第三部の祖型である、掌篇「鴨頭草(つきぐさ)」の加筆修正(一部改稿)を、紀元節の前日に終えました。

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 私は昭和二十二年の四月から折口の家に同居するようになった。その翌年の二月十一日のことだったと思う。きっかけはどういうことだったのか、よく覚えていない。あるいはちょっと改まって、「お誕生日おめでとうございます」と挨拶したのかもしれない。意外だったのでよく記憶している。「誕生日なんて、親の勝手なんだ」と言った。そして少し間を置いて、紀元節にひっかけて、「国の誕生日だってわからないんだから、個人の生まれた日などわかりはしないさ」とつけ加えた。

 

と、岡野弘彦さんは、『折口信夫の晩年』にそう書いていますが、とにもかくにも、私にとっての「折口信夫」(拙作)は、「紀元節」の前日に、生まれたのです。

 

 紀元節に たのしげもなく家居りて、おきなはびとに見せむ書を かく   迢空

 

「沖縄人に見せむ(見せるだろう)書」というのが、本道でしょうが、「翁は人に見せむ書」というのも、また、本道であり、いまの私の気分です。笑

 

藍宇

「インターネットで発表されたゲイ小説 『北京故事』 (邦題:『北京故事 藍宇』 講談社刊)を映像化した作品。」

とウィキにあります。

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小説は、未読ながら、その「藍宇(ランユー)」が、これも、中国での制作となる「覇王別姫」(1992年)、「春光乍洩」(1997年)とともに、4Kリマスター版でかかると知り、高田馬場にある「早稲田松竹」劇場に観に行きました。

ちなみに、「覇王別姫」と「春光乍洩」は、DVDによる茶の間桟敷で、何度も観ています。

「藍宇(ランユー)」の作中、坂本龍一の「Merry Christmas, Mr. Lawrence」が、それを聴いていた青年のことばのうえに流れ、ということは、1983年以降の出来事なのか? と、この映画が制作された2001年を現代(いま)としたとき、その間の時代を18年さかのぼって、物語は始まることになります。

どうりでパラレルワールド

「舞台は1988年の北京。高級官僚の子息で青年実業家の陳捍東(チェン・ハントン)は、部下で友人の劉征(リウ・ジェン)に金に困っているという学生・藍宇(ランユー)を紹介され、一晩ベッドを共にする。」

とウィキにあります。

ハントンをバイセクシャルと知る部下で友人の、こうした悪ふざけに、まず、ホモソーシャルな欲望を感じましたが、「悪ふざけ」の域を出ないハントンのそれは、ランユーにとって初体験であり、ハントンにいだき始めた恋心は、そののちの再会によって、恋情へとかわっていきました。

しかし、ハントンの、ランユーへの思いは、彼らが知り合い、付き合うようになっても、「悪ふざけ」であったことが、ハントンの浮気(男との)と結婚(女との)、といったゲイの苦悩の種を、その身に播かれた当事者のほうからこれを遠ざけ、ハントンの前から、ランユーは、二度姿を消すのです。

一度目のとき、銃声が鳴り響く深夜の街で、ハントンは、ランユーを探します。

広場でランユーを見かけた、との情報によるものでしたが、折しも、北京にある天安門広場で、民主化を求めて集結していたデモ隊に、ランユーが加わっていたとするそれは、そこに、軍隊が武力を行使し、多数の死傷者を出した、天安門事件を背景に置いています。

1989年のことです。

そうした時代「背景」を、ハントンとランユーが過ごす、時間の隙(ひま)に垣間見るうち、フィルムは、わたしたち、同志の関係を、ふたりのうえに重ねて、その後半を流れていきました。

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2015年、アメリカ合衆国では、オバマ大統領により、全州での同性結婚の合法化が進められ、翌、2016年、アメリカ合衆国大統領選挙に向けた動きが本格化しました。

わたしたちが知り合ったのは、2016年のことであり、米大統領選におけるトランプの勝利と、リオデジャネイロオリンピック開催とに湧いたその年、日本では、相模原障害者施設殺傷事件が起こりました。

「殺害人数19人は、当事件が発生した時点で第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としては最も多く、事件発生当時は、戦後最悪の大量殺人事件として日本社会に衝撃を与えた。」

といった、事件のあらましを、デートの車中にはいった速報のうちに知り、始まったばかりの関係に兆したそれは、かかる時代への暗雲でもありました。

そこから、これまでの年月の間に、

2017年、オバマ米大統領の任期が満了し、

2019年、日本政府が平成に代わる次の元号を「令和」であると発表し、

2019年末より始まった、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) のパンデミック(世界的流行)が2020年、2021年、2022年、2023年
と続き、

2024年、元日の能登地震へと、知り合った当時のわたしたちが、そうした激動の時代を過ごそうとは、ゆめゆめ思いもしませんでしたが、早いもので、八年目を迎えました。

母が亡くなったとき(2017年)、一番近くにいてくれてたひとでもあります。

そうした、わたしたち、同志の関係を、ふたりのうえに重ねて、いつしか、フィルムは、その後半を流れていきました。

ハントンの結婚生活は、3年で破綻を迎えました。

そんな、ある日、ハントンは、空港でランユーと三たび再会します。

出会ったときから、十年の歳月が流れていました。

これも、三たび恋人関係に戻るふたりでしたが、その矢先にハントンの事業に、不正の嫌疑がかけられ、投獄。

ランユーは、かつて、ハントンから贈られた資産(家屋)を処分し、そこから得たお金で、この愛しい恋人を釈放すると、ふたりは、あらためてお互いの愛を確認し合い、再出発します。

最初の再会のとき、ハントンが、ランユーを気づかい、していたマフラーを、かけてあげたシーンで、頬を伝った涙、以来、二回の別れのうちも、伝うことはなかったそれが、ハントンの釈放を祝した、ランユーたち身内と囲む食卓のシーンで、滂沱の涙に。

そして、

「好きで好きでたまらない」

そのことを病気とたとえるランユーと、ハントンの最期の戯れの翌朝、ハントンをベッドに残して仕事に出かけるランユーのカット。

そのフィルム冒頭のカットの続きが流れ、ハントンのケータイが鳴ります。

「……」

声、出ちゃった! どころか、絶句です。

「エグい!」

というそれは、わたしの浅はかな、民族性に対する、蔑視のそれでもあるのでしょうか。

それはともかく、時は、さらに、流れたのです。

建設業者であるランユーの姿を、いまも、工事現場に目を止めて、探すハントンと、疾走する自動車。

(「同窓会」<1993年10月~12月>、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ、それの最終回での風馬と嵐を想起、あるいは、オマージュだったりして 笑)

「小説はあらゆる文芸中、最も非芸術的なるものと心得べし。文芸中の文芸は詩あるのみ。即ち小説は小説中の詩により、文芸の中に列するに過ぎず。従つて歴史乃至伝記と実は少しも異る所なし」(芥川龍之介)

とのエピローグが、疾走する自動車の車窓の風景に、重ねられていたかは、知りません。

どうして、こんな酷(むご)い「詩」を読むことが出来ましょうか。

とにかく、わたしたち、同志の関係が、恋心、恋情を経て、身内といったそれになり、ゆえに、一番近い他人になろうとも、あなたは、いまも生きています!

それだけで、充分なのです。

そんなことどもが、疾走する自動車、あるいは、お互いが過ごした時間の流れに重なったとき、ランユーへの想いを託した「エピローグ」を読むことは、涙で霞んだこの目に、やはり、不可能なのでした。

そうした、故人、あるいは、個人の追想をお構いなく、ゼロ年代初頭の北京には、建設ラッシュの波が、押し寄せていました。

「経済開放で激変する中国の社会背景がさりげなく物語に反映されている点も見どころのひとつ。」

とウィキにあります。

劇場が明るくなる前に、カバンから取り出したマスクを、しっかり、顔に当てました。

とはいえ、劇場で作品をシェアするって、いいですよね。

暗くなって明るくなって、さまざまな、思いがあって。

以上が、『藍宇 〜情熱の嵐〜』(2001年)に持った感想でした。

おしまい。(長いけど 笑)

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旅寝

「お酒、ワンカップでいい?」

と車上の父に。

「ふなぐちってのがあったでしょ」

との指定がはいり、

「へ、自分で飲みたいくらいよ」

と続けるも、母堂に捧げる供物であり、腐る前に飲みたい! というのが本望です。

だから、墓前に供えたあとで、

「フタしとく?」

「ダメダメ、開けといて」

と父に訊ねたのも、きっと、飲まれたくないがゆえの、足掻きであったのかもしれません。

私に、メメント・モリに対する概念は、ありません。

ということを、父の死者への対応の篤さに感じた瞬間でもありました。

千の風になって』という歌が流行った頃、その歌詞のいわんとすることがわからなかったくらいには、私も、まだ、若かったのでしょう。

とはいえ、「父の死者への対応の篤さ」は、その頃から変わりません。

祖父は、父の幼い頃に亡くなり、祖母を見送り、叔母を見送り、やがて、そのことが、先祖への信仰となり、生かされてることの感謝となる頃には、私も、「死を想う」ようになるのでしょうか?

墓所を分かつ、築地塀の前を、喪服のひとたちが、通り過ぎて行きました。

駐車したあと、その葬列に出くわした、私の目の前を、恭しく抱えられた、お骨が過ぎて行きました。

瞬間の出来事ではありましたが、知らないひとの一生に、はからずも対峙した瞬間でもありました。

 

 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ   迢空

 


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良夜

「で、〇〇さんとは、どうなってるんですか?」

とそのひとから、ディナの中盤で訊かれたとき、

「そーいやあ」

と、会っていなかった半年間を振り返り、そのひとにするべく、近況報告があったことを、思い出しました。

ようするに、いまとなっては、取るに足らない、些事なのですが。

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話は、春の「文学フリマ」に始まり、夏に兆した光明は、しかし、秋の「〇〇さん」との会い(友人をして「悲劇ふたたび」といわしめられた!)で、もとの木阿彌と、結果、「〇〇さん」の病症を再認識する、どころか、ますます酷くなっているかもしれない、それを知るにいたりましたが、縁なき衆生は度し難し、とは良くいったものです。(そもそも、菩薩であったことなどありませんが w)


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それにしても、そのひととは、会えば、オトナらしく、周縁の人間関係について、面白可笑しくおしゃべりし、つまり、互いの核心に触れないことで、穏当に過ぎていく時間と、心地よいと感じる空間でのひとときを、「打ち合わせ」を兼ねた、機会のうちに費やすのが常でした。

などと、これまでに費やした「機会」を、過去のものにするかの口ぶりは、だから、昨夜の「機会」をもって刷新したのかもしれず、あるいは、「「打ち合わせ」を兼ね」ていないそのことに起因しているのかもしれず。

まあ、お店の喧騒につつまれ、「面白可笑しくおしゃべり」しているには違いないのですが、しかし、「互いの核心」に触れつつも、「穏当に過ぎていく時間と、心地よいと感じる空間」は、コースで頼んだお料理の出てくるタイミングと、その味わいの妙がなせるそれであった! とお料理ごと時間と空間をいただいた気がします。


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雪予報が出ている週末。

暖かった日中も、日の暮れるに従って、徐々に冷え込んできてはいましたが、風もなく、空気だけが、厳かに高まっていくような、そんな、大寒前夜。

ほんとに、良い夜でした。

釣果

「半期に一度の総決算」

とは、セールの謳い文句であり、そうした、セールを、年に三回(1・4・7月)催している、高円寺・西部古書会館に、きのう・きょうと行ってきました。

初日は、全品200円均一で、以後、100円・50円と、三日間のうちに売れ残った、その値幅をして、これを「大均一祭」と呼ぶのでしょうか。

この「大均一祭」のほかに、セールといっては、「歳末赤札古本市」という催しがあり、ですから、高円寺には、そうしたセールを目当てに、年四回、行っています。

ところで、昨年秋より、加速がついた感がある、「断捨離」(20年のコロナ禍中より始めています)。

いわく、蔵書の整理・処分も、洋室・和室のそれぞれの押入のうち、洋室のそれを終え、和室の整理・処分に取りかかろうとしている、そのさなかに来した「大均一祭」。

そんな、負い目を、きのうのミニバッグから、きょうのディバッグへと、背負い直すと、均一ゆえの釣果(二日間で20冊の出来高)に、差した魔を自覚せざるを得ません。

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それにしても、誰がための「断捨離」でしょう?

などと、スッキリした空間で、シンプルに暮らすべく始めた、それの一環として、書肆の在庫を処分しながら、そうした、冊子に掲載した「作品」を「集成」し、スッキリ・シンプルに得ようとしている、そのことなき自体が、これまでの「釣果」(資料)のうちに、ことをなしていた!

との矛盾が、「誰がため」などと、「加速がついた」「断捨離」に、歯止めをかけ始めてもいます。

ようするに、「スッキリ・シンプルに得ようとしている、そのことなき自体」こそが、日々、流動、かつ、混沌、とした、ワクワクのなかでしか育たず、ワクワクしない「断捨離」に、ストレスさえ感じ始めているのです。

そうしたさなかでの「大均一祭」に、「魔が差した」と、果たして、これを卑下することが、出来るでしょうか?

確かに、「均一ゆえの釣果」に負い目を感じはしましたが、その重さに感じたワクワクを、あるいは、嫌いな冬ながら、ビルの稜線が浅葱色に染まって、これぞ、冬の朝! と感じた、その詩的な早朝、ワクワクのままに動き出す、ココロとカラダを、止めることは、神さま以外、誰にも出来ないのかもしれません。

己が知のインデックスを、汚れた手のうちに感じる、それが、釣果(ワクワク)であるからには。
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点灯

元日に事件があり、二日に事故がありました。

残りの4/365日に、そうした禍(わざわい)が、繰り返し起こらぬようにと、祈念した三が日でもありました。

そんなわけで、松の内最終日のきょうは、例年振り返っている、「三が日」の思い出ではなく、思い致したこと、を、奇しくも、被災地界隈から届けられた、葉書と小包に照らしながら、あの日のことを考えてみようと思います。
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「紙のなかにしかない」死、或は、出来事をこのたびの天譴(てんけん)に照らしたとき、地震とひとくちにいっても、おおきな揺れを感じたくらいで、被災地から遠く離れた場所では、その惨状をメディアのなかにしか見聞できないというのが実情なのだ。極端をいえば被災を免れた者は、そうした天譴(てんけん)を文体でしか体験していないことになるのだろう。

 

とは、あの日(3.11)に持った感慨を、拙論(「心不在(こころここにあらず)」)のうちに記したそれですが、その論に引いた、吉本隆明の、

「人間の思想(幻想)のほんとうの恐ろしさは、戦争を体験しても第三者、書斎に寝ころんでいても第二者であるという思想と現実の事件(素材)との不関性の中に根拠をおいている」

との一文が、元日に起こった「事件」と、メディアの反応のうちに、ふたたび思い返されました。

さらに、拙論には、

 

そうした惨状をメディア(=テクスト)のなかにしか見聞できない、或は、当事者のネガとなって「不関性の中に」身を置かざるを得ないという状況は、天譴(てんけん)によってもたらされた、なかば強制的な措置でもあるのだ。

 

と書かれています。

 

「3.11」として記憶された、当時の「事件」と、このたびの「事件」とは、しかし、人智を超えたところで警告された、致命的な偶然であり、私たちには、どうすることも出来ない事態なのです。

「メディア」といっては、SNSしか持たない、弱者の私は、「当時の「事件」」を教訓に、そうした、情報を一切、スルーすることに決め込み、この「三が日」を、例年通り、個人の幸せのうちに過ごしました。
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しかし、「被災地界隈から届けられた、葉書と小包」によって、「事件」の渦中に呼び戻され、「「3.11」として記憶された」、あの日のことをも考えた、というわけです。

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ひとまず、「事件」とその因果によって起こった「事故」とを、自分なりに、粛清してみました。

それで、「三が日」以降、「松の内」までに、私がしたことといえば、労働以外に、掃除です。

これまた、2011年製のオイルヒ―タは、山ん中で暮らしていた当時、就寝前にスイッチ・オンにし、築70年の木造家屋の洗面所を、居室以上に暖めてくれ、重宝したものでしたが、ほどなく、都心のマンションに移った、その当座は、そうした恩も忘れ、これまで、浴室の洗面台下で、埃の被るに任せてあったものです。

「都心のマンション」といっても、75年竣工のヴィンテージであり、こと、浴室においては、床と壁が、タイル貼りの、いわば、石室です。

11年から、早、ひと回り。

私も歳を重ね、ヒートショックなどとの症例も、気にし始めるお年頃であり、何より、酷暑、極寒との、夏と冬の二季しかない、昨今です。

そんなこんなで、あえて、動作確認をせずに、掃除し始めたオイルヒータは、スイッチ・オンで、無事、点灯。

「生きてた!」

こころに、明かりが灯った、瞬間でもありました。
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