昨年の秋、沿線に住む友人の、新居を訪ねた折り、居心地の良いリビングルームの、ソファに対座しながら、見せてもらった書物の一つに、
須永朝彦の「滅紫篇」
があり、さらに、気にいったページがあると、つまびらかに示されたのが、
「縹、二藍、藍、紺、菫…」
と「繚乱と池水を彩」る「菖蒲」を描写した一文と、その色名でした。
拙作に、「鴨頭草(つきぐさ)」という、折口信夫のことを書いた掌篇があって、そのなかで、
「群青、紅碧、瑠璃、紺青、そして、鴨跖草の色」
と書いているから、あるいは、須永朝彦のそれを盗用したのかもしれませんが、何ぶん、20年も昔の話です。
そのかみの折口信夫のことを、評伝/物語として書き始めたのも、昨年秋のことであり、沿線友を訪ねた前日には、第一部・第二部、と新作執筆・加筆修正を終えていました。
第一部は、「とりふね」
第二部は、「倭をぐな」
です。
前者は、新作執筆であり、後者は、加筆修正ですが、大幅に改稿しています。
詩社「鳥船(舩)」の創設から、それにかかわった弟子たちとの交流を、戦前・戦中の國學院における、学閥のなかでの先生とともに書いたのが、第一部ですが、さらに、愛弟子たる、「春洋」と「守雄」のことを第二部で克明に書き、戦後は、慶應における、学閥のなかでの先生を、これも、慶應の「康二」と「弥三郎」との交流のうちに書いたのが、第三部「たづがね」です。
「守雄」というのは、『わが師 折口信夫』を書いた、加藤守雄のことですが、師匠から受けたパワハラおよびセクハラを、痛切な筆致のうちに書きつつも、多様に開かれていない当時の文壇に、一石を投じこそすれ、誰の得にもならない、そうした、加藤の駈込み訴えは、しかし、それを読む私の目に、勇気の書と映り、それゆえ、多様に開かれつつある、いまだからこその感慨を、もたらしもしました。
そして、第三部「たづがね」は、「守雄」の死後(もちろんフィクション!)、霊体となって現れた「守」という少年と、「春洋」もいない先生宅にはいった、「おっさん」(霊験あらたか!)こと、折口信夫の晩年を共にした岡野弘彦の、鳥瞰的な眼差しのうちに書いた、半フィクションであり、ファンタジーであるのかもしれません。
それら、「新版 倭をぐな」、第一部・第二部・第三部の祖型である、掌篇「鴨頭草(つきぐさ)」の加筆修正(一部改稿)を、紀元節の前日に終えました。
私は昭和二十二年の四月から折口の家に同居するようになった。その翌年の二月十一日のことだったと思う。きっかけはどういうことだったのか、よく覚えていない。あるいはちょっと改まって、「お誕生日おめでとうございます」と挨拶したのかもしれない。意外だったのでよく記憶している。「誕生日なんて、親の勝手なんだ」と言った。そして少し間を置いて、紀元節にひっかけて、「国の誕生日だってわからないんだから、個人の生まれた日などわかりはしないさ」とつけ加えた。
と、岡野弘彦さんは、『折口信夫の晩年』にそう書いていますが、とにもかくにも、私にとっての「折口信夫」(拙作)は、「紀元節」の前日に、生まれたのです。
紀元節に たのしげもなく家居りて、おきなはびとに見せむ書を かく 迢空
「沖縄人に見せむ(見せるだろう)書」というのが、本道でしょうが、「翁は人に見せむ書」というのも、また、本道であり、いまの私の気分です。笑