擱筆

先の記事のタイトルを、「起筆」としたからには、「擱筆」とタイトルした記事も書かねばなりません。

当然、「起筆」から「擱筆」にいたる期間(10/9~12/2)もありますから、その詳細を記せば、

『とりふね』 新版 倭をぐな 第一部

『倭をぐな』 新版 倭をぐな 第二部

となり、前者は、新作、後者は、旧作、の全面改稿となります。

ところで、「とりふね」というのは、折口信夫釈迢空(以降、折口と記す)が創立した詩社のことで、正しくは、「鳥船(舩)」です。

他方、「倭をぐな」というのは、折口の没後に編まれた歌集の名で、大きく二部に分かれたこの最後の歌集は、前半が「倭をぐな」、後半が「倭をぐな 以後」とされて、それぞれ、折口の生前・没後は門弟によって編まれました。

拙作『とりふね』は、詩社の始まりから終わりまで、「鳥船」にかかわった、五名の門弟の名を章立とし、各人が持つ、「先生」とのエピソードを、詳細な資料に基づき、曲解することなく、書いた評伝/物語です。

他方、拙作『倭をぐな』は、そのかみの「倭健命」になぞられた、折口の二人の高弟、すなわち、藤井春洋と加藤守雄が持つ、「先生」とのエピソードを、詳細な資料に基づき、書いた評伝/物語です、が最終パートを曲解し、願わくば、そうした、「先生」との醜聞を持つ、守雄には、

 

「わあっ」という人声がおこった。

……換声に、よびかえされた所を見ると、私は崖からとび下りる気だったろうか。

 

がごとく消えてもらいたかった。

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というのが、擱筆したあと、24時間のうちに、ふつふつと起こった、感慨ですが、もし、咄嗟の行動のままに、守雄が身投げをしていたなら、「「先生」との醜聞」の逐一を書いた、『わが師 折口信夫』を読むことは、当然出来ず、そうした、師弟間のうちにあった、セクシャルハラスメントが、表沙汰になることもなかったわけです。


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ところで、社会学者、石田仁さん作成の、「戦後男性同性愛関連書誌・略年譜」を見ると、加藤守雄『わが師 折口信夫』が刊行された、1967(昭和42)年には、「薔薇」「第二書房の性書群」と、公刊誌たる「薔薇族」「さぶ」の創刊まで、三年から六年までを待たねばならず、先の「薔薇」にしたところで、会員制の頒布誌だった、ということがわかります。

つまり、何がいいたいかというと、そうした、男性同性愛がタブーとされていた世のなか(先生と守雄のエピソードは、昭和18・19年のこと)で、

 

「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも、純粋だと思う。変態と考えるのは、常識論にすぎない」

 

と「きっぱりした語調」で語る「先生」からのそれに、

 

私は苦痛に近いものを感じた。先生が、こんなにはっきり、自分の正しさを主張された以上、積極的な行動に出られるに違いない。先生の強烈な自我は、障害となる常識的な反省や規律を、怒濤のように押しつぶすだろう。

 

と、かつて、目にした、「先生」の言論に対する、公衆の面前での、無茶に見える、反撃や憤怒を、「不当にいためつけられた自我を回復する為の戦いなのだ」、と解した守雄にとって、「自分の正しさを主張」する「先生」から、よし、「積極的な行動に出られ」たことを思うと、「生理的な恐れが」守雄を「総毛立た」せ、そうした、守雄に、同性愛的感情が理解出来ない以上、逃げ出すよりすべがなかったのでしょう。

「先生」という名の権利の正当性から、あるいは、そこから出奔することで、守雄は正しくその権利を勝ち得た、と思いたかったのでしょうから。

折口の「正しさを主張」する行為と、守雄の「生理的な恐れが」、「師弟間のうちにあった、セクシュアルハラスメント」をのみ、当時の世のなかに伝えたとしても、師匠の名誉を傷つけた弟子、あるいは、師匠の醜聞が表沙汰になっただけで、双方に害こそあれ、得られる利のないことは、自明の理でしょう。

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ゆえに、私なぞは、そうした、師弟の勇気のうちに書かれた、本書を、読むべく時代に読んだ、奇書としたいのです。

願わくば、守雄には、咄嗟の行動のままに、身投げしていただき、消えた守雄と、「「先生」との醜聞」の逐一を書いた、『わが師 折口信夫』を読むことの出来ない世界線での物語として、拙作「『 倭をぐな』新版 倭をぐな 第三部」のうちに書き継ぎたいと、目論んでいたりもします。笑