起筆

こんどの「作品集成 II」の入稿を終えて、早三週目。
とはいえ、三日前まで、データのやり取りをしていたこともあり、実質、この週末から、つぎの「作品集成 III」に向けた準備を進めているわけですが、さらに、別の要請もあって、同じ主題ながら、それらを同時、あるいは、統合していく進行を前に、心躍る気分です。
作家であり歌人、はたまた、民俗学者でもある、折口信夫を主題にした、拙作「倭をぐな」を書いたのは、15年前のことで、西大井の家でともに暮らす、「春洋」と「守雄」と「女中(生萩)」とを、そのまま、章立に付し、それぞれ三人の弟子のまなざしをもって、折口とのエピソードを物語として広げてみました。
「物語」といえば、そうした、エンタテイメントとしての「折口信夫を主題にした」ものに、大塚英志の「木島日記」があり、北村薫の「いとま申して」があります。

「折口とのエピソードを物語として広げて」みるにあたり、エンタテイメントの手法によらない、かといって、バイオグラフィーにも落ちない、ザブジェクティブなものをと思い、歌人釈迢空(・折口信夫)の一首の読み解きに収斂させていく手法をとったわけですが、大塚のそれ(1999年)と、北村のそれ(2018年)とが書かれた、中間の拙作(2007年)を顧みながら、さらに、何を書くことがありましょうか!? とそのネタ切れを感じつつも、同じ時間軸でありながら、折口の年齢に、筆者たる私の年齢が近づいていることの、これも、「ザブジェクティブなもの」で、との想を得ました。
「「春洋」と「守雄」」を書くとなると、折口のセクシャリティ、乱暴にいえば、「性愛」について書かねばならず、当時の筆者の血の気から、それは、もっともなことでしたが、青年が中年に、中年が老年に、差し掛かったいまとなってみれば、その「時間軸」にあった折口の心境も、いよいよ、わかろうというものです。

 

 葛の花
 踏みしだかれて、色あたらし。
 この山道を行きしひとあり

 

この一首の読み解きを、「女中(生萩)」を通して書いた、折口の「執(しゅう)ねき心」に重ね、そのひとの自画像としてみましたが、このたびの「新作」では、生萩を「女中」としてしか登場させず、「「春洋」と「守雄」」同様、西大井の家でともに暮らす人物として書くつもです。

 

 “踏みしだかれて、色あたらし” とは、信夫がかつて愛した愛(トル)弟子が娶った女(の謂い)であり、そのこと(に取り憑かれながら)を想像しながら山道をゆく、信夫の眼には、この真っ赤な(赤紫の)葛の花が、血を流しているかのように見えたことであろう。
 生萩は、そんな、信夫の憂恨を、このうたのなかに感じ(認め)ながら、しかし、その葛の花をいま一度、踏みしだくの(であった)だった。

 

*()内、加筆修正。

 

とは、拙作「倭をぐな」における、私の、「葛の花」の歌の評であり、はたまた、折口そのひとの「狂うて見せ候へ」から派生した自画像でもあります。
何たる「筆者の血の気」であることでしょう。笑
むしろ、このたびの「新作」では、その原因たる、「弟子が娶った」ことから、「家族」のありかたについて、「折口のセクシャリティ」をも、言及するつもりです。

*画像、夏の漂着物。(芙蓉花)
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