釣果

「半期に一度の総決算」

とは、セールの謳い文句であり、そうした、セールを、年に三回(1・4・7月)催している、高円寺・西部古書会館に、きのう・きょうと行ってきました。

初日は、全品200円均一で、以後、100円・50円と、三日間のうちに売れ残った、その値幅をして、これを「大均一祭」と呼ぶのでしょうか。

この「大均一祭」のほかに、セールといっては、「歳末赤札古本市」という催しがあり、ですから、高円寺には、そうしたセールを目当てに、年四回、行っています。

ところで、昨年秋より、加速がついた感がある、「断捨離」(20年のコロナ禍中より始めています)。

いわく、蔵書の整理・処分も、洋室・和室のそれぞれの押入のうち、洋室のそれを終え、和室の整理・処分に取りかかろうとしている、そのさなかに来した「大均一祭」。

そんな、負い目を、きのうのミニバッグから、きょうのディバッグへと、背負い直すと、均一ゆえの釣果(二日間で20冊の出来高)に、差した魔を自覚せざるを得ません。

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それにしても、誰がための「断捨離」でしょう?

などと、スッキリした空間で、シンプルに暮らすべく始めた、それの一環として、書肆の在庫を処分しながら、そうした、冊子に掲載した「作品」を「集成」し、スッキリ・シンプルに得ようとしている、そのことなき自体が、これまでの「釣果」(資料)のうちに、ことをなしていた!

との矛盾が、「誰がため」などと、「加速がついた」「断捨離」に、歯止めをかけ始めてもいます。

ようするに、「スッキリ・シンプルに得ようとしている、そのことなき自体」こそが、日々、流動、かつ、混沌、とした、ワクワクのなかでしか育たず、ワクワクしない「断捨離」に、ストレスさえ感じ始めているのです。

そうしたさなかでの「大均一祭」に、「魔が差した」と、果たして、これを卑下することが、出来るでしょうか?

確かに、「均一ゆえの釣果」に負い目を感じはしましたが、その重さに感じたワクワクを、あるいは、嫌いな冬ながら、ビルの稜線が浅葱色に染まって、これぞ、冬の朝! と感じた、その詩的な早朝、ワクワクのままに動き出す、ココロとカラダを、止めることは、神さま以外、誰にも出来ないのかもしれません。

己が知のインデックスを、汚れた手のうちに感じる、それが、釣果(ワクワク)であるからには。
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