台湾ノート 2

「荒涼として孤独な島で生き延びてきた人々を通じて、そして二十年の間に刑場の露と消えた人々の生死を通じて、彼は暴力と流言飛語が覆い隠そうとしてきた歴史に出会ったのだ。」
荒涼として生き延びてきた人々とは、一九四五年までの五十年間におよぶ日本の植民地時代を過ごしてきた台湾人であり、孤独な島とは、植民地支配から解放され、祖国復帰を果たしたあと、台湾海峡間の往来が、政治的・軍事的に切断された、その「島」自体、あるいは、北京政権成立(一九四九年)後、徐々に育ち始めた台湾人の概念のことでありましょう。
そして、二十年の間に刑場の露と消えた人々とは、「一九五〇年の朝鮮戦争勃発前後の徹底的な政治粛清(白色テロ)の時代に投獄され」た政治犯たちであり、彼は、その獄中での出会いによって、埋もれたままで生き延びている、暴力の歴史に遭遇したのでした。
f:id:sumiretaro:20190608222050j:plain

彼とは、先の「台湾ノート 1」で触れた、 戴國煇から「最もよく分かってくれている」といわれた、 戴を「先生」とする作家、陳映真のことであり、彼は、「民主台湾同盟」事件により、懲役十年の刑に処されたのでした。
一九六八年のことでした。
つまり、「朝鮮戦争勃発前後」から、二十年になろうとする、そのときの「彼」と、「五〇年代、心の中に赤旗をはためかせつつ、暗黒の台湾を走り回った本省外省の、真っ直ぐに青春を走り抜け、新中国を作り出す火とならんとしたあの世代」、とりわけ、「戴國煇」とは、世代を超えた同士でもあったのでした。
「国民党の台湾における「党国一家」的支配体制と自らの「法統」と政権保持のために中央民意代表の選挙の凍結、反中共のための総動員体制と戒厳令、......」
そうした戒厳令下で書かれた「彼」の文学を、文集として編まれた小説と散文のなかから、編年を追って読んでいくうち、その「散文」のなかの、獄中に繋がれていた「彼」のもとに、「懐かしい友が創刊した」雑誌が届き、「全く新しく進歩的な気脈が獄外の文学圏において醸成されつつあることを知りーー抑えられない激越を抱えつつーー驚いた。」といった、一文に出会いました。
その驚きとは、
「文学の民族形式と民族スタイルの問題、文学言語が幅広い大衆に遍く理解されるべきだという問題ーーさらに文学とは何か、何のため、誰のためにあるのかーーこれら文学観の基本問題が提出されたのだ。」
というものでした。
一方、「彼」の「先生」、戴國煇もまた、
「怒れる若者の世代は」、と前置いたうえで、戴が、「彼」と同世代のときに感じた、進歩あるいは反動の立場を、
「彼らは、もはや父や祖父の世代のように日本語ーーたんにコミュニケーションの手段だけにとどまらず価値の一部も含むーーを通じて、......思考様式の違いを自己確認する。そして彼らは自らが手にしたささやかな"武器"を以て伝統の足かせを打ち砕くべく動き始めた。......彼らは自らを台湾で生まれた中国人と呼び、台湾人であってかつ中国人でもあることを、実に素直に表現する。」
ととっています。
そして、「彼」は、「歌えるのに怯えて歌えなかった歌を今聞いたような感動を覚え」、かつ、「壁の外の故郷で、どこからか吹き始めた風が煤原を焦がす火の粉となり始めたのだと感じた」のでした。
「彼」の文集の最後に収められた「散文」に、「宿命的な寂寞」と題された、「先生」、戴國煇への追悼文があって、「彼」が一九八五年に創刊した雑誌「人間」に掲載した、「五〇年代白色テロの露と消えた革命家、郭秀琮について」書いたそれに、戴は、「とてもよく書けている」とその感想を、「沈思しつつ述べた」あと、
「急に声を落とし、先生は私の右腕を掴んで頭を垂れた。そして突然嗚咽しはじめたが、それを抑えるように我慢するのであった。私の腕を握る強さと震えの中で、そしてみなの居る前でも抑えきれない深い悲しみの中で、私はじっと座っていた。」
「彼」は、「先生」の男泣きについて、その漠たるものを、世代を超えた同士としての、皮膚感覚のうちに感じ取っていました。
革命家、郭秀琮たちの世代との骨に刻むような歴史的な関わりについて。
「少年戴國煇は......英雄豪傑の先輩たちが集まる「梁山泊」で、先輩たちの喧々諤々の議論を聞き、強烈な「薫陶」を受けた。さらに、二・二八事件の嵐の中、それら「梁山泊」の先輩たちはこの事件への科学的な分析を行い、年少の戴國揮を感服させた。......朝鮮戦争とともに「白色テロ」が蔓延し、......彼の多くのクラスメート、友人、先輩たちが次々に獄中に繋がれ、また銃殺された。......謂れもないことで連座させられるのを避けるため、彼は......一九五五年悄然として留学......」
調査資料によれば、郭秀琮は、「梁山泊」の熱血青年たちが仰ぎ見ていた明星であり、「彼」は、また、戴國揮を、自身の「明星」として、その言動に注視し、その言葉を傾聴し、その著者を読んできたのだといいます。
さらに、「彼」は続けます。
「私がそこから読み取ったのは、台湾の現代史において機械的に加害者と被害者を分けたとして、戴先生が力説していたのは「被害者」の中の「共犯構造」であり、この反省を迫っていたことである。」
と。
「彼」は、「先生が私の腕を握っているのに任せて、私は誰も知り得ない先生の心中の暴風雨が過ぎるのを見守った。」
そうした、彼らの緊張感が、翻訳のそれで、かほどのリアリティをもって伝わっているのか、我ながら半信半疑ではありますが、いまはただ、「暴力と流言飛語が覆い隠そうとしてきた歴史」と真摯に向き合い、愚直なまでに、これを読むしかないと思っています。
台湾作家、陳映真と彼の「戒厳令下の文学」について、このたびは、ノート(考察)してみました。
f:id:sumiretaro:20190609153331j:plain

*画像は、鄭寛さんより、ご提供いただきました。