ものにはタイミングというものがあります。
例年、仕事を収めたあとでいう、
「良いお年をお迎えください」
という定型文言も、ことしは、各先方とのタイミングを逸したものの、仕事を収めて三日も経てば、そうした形式的なことが、自らに課せたルールでしかなく、御用納めの「定型文言」ながら、違和を感じていたことに、いまさらながら、気づきました。(タイムラグとは)
しきたりといえば、正月飾りの準備も、それをそなえる日取りに、苦飾り(29日)や一夜飾り(31日)を避けるとか、これまた、親にすり込まれたルールでしかなく、古来、先人たちは、こうした、語呂合わせでしかない、「しきたり」に、年末年始の数日を準備にかこつけ、縛られ続けてきたのだな、とこれまた、いまさらながら、思いました。
こんな「語呂合わせ」は、おせちのお重のなかにもはびこり、正月箸も三が日は捨てずに、その豪奢を休暇の間中、お屠蘇をいただきながら、楽しんでいたりもします。
つまり、年頭に味わった密かな愉しみを、明日も味わえるのか、とワクワクしながら、注文した「おせち」の到着を待っている、ことし最後の一日へと、「しきたり」という名のルーティンは、それゆえ、円環しているのです。
すでに、出来る範囲のなかで、新年を迎える準備は、整っています。
そうやって、終わり、始まる、例年。
ことしも、「公」の合間に「私」をやり、拙「作品集成 II」を出せたことは、三か月続いた酷暑の一週間を、発熱を押してまで、それの準備(編集)に当てたことへの成果であったと、むしろ、そうした、「酷暑」や「発熱」を尊べるくらいには、いま、静かな年の瀬を迎えています。
終わり良ければすべてよし、との所以です。笑
らいねんは、といって、明日からは、元旦の計を、筆に求め、現行の新作執筆(「新版 倭をぐな」第三部、「たづがね」)に、その三が日を費やす所存。
結局、一年という期日に縛られ、そうした、ルーティンのなかで、明日からも、さらに、再来年の明日からも、自由でありたく、その幅を広げていきたいと思う私の、これが、未来への豊富です。
皆さまも、どうぞ、良いお年をお迎えください。