九月朔日。
はからずも朝涼。
二か月間つけっぱなしにしていた冷房を切り、南と北の窓を網戸にして全開。
その間にもこもっていただろう気を一掃。
このタイミングを待ち望んでいました。
ベランダに置いたグリーン・テーブルに並べた、花のつかない植物たち、とりわけ、オリヅルランとコウモリランは、「蘭」を名乗りながらも「蘭」にあらず、オリヅルランにつく花とても、蕚(がく)としか見えず、よって、「花のつかない植物たち」と見做。
それら、観葉植物の借景となっているのが、ソメイヨシノの巨木であり、二か月ぶりに得と眺めた葉の繁りに、大勢だった頃の面影は、もはや、ありません。
ようやく、開花した桜とともに、膨らむ春への期待は、そこから、半年が過ぎてみれば、その「花」の時分(じぶん)に取り憑かれたかのようにのめり込む、二人の同行者のそれに思い当たります。
そして、迎えた「花」の最盛期と、大勢な葉の全盛期とのうちに、同行二人の菫太郎センセイとは、一冊の論集を持つにいたりましたた。
「これが「時分(じぶん)の花」というものなのであろうか。すべての少年たちが「青年」に変身する間際に唯一度だけ、しかもほんの一瞬の間だけ必ず表出する輝き」
を、そのかみの「楯四郎」が誰であるのかを、比較資料とともに探す季節が、やがて、「大勢な葉の全盛期」を迎えた頃には、楯に、確定されたペンネームがあり、そこから、第三、第四、第五と、五つの顔を持つ作家、であることを知るにいたりました。(推察の範囲で)
まさに、
「この花びらは、五枚で一つの花になるんだね。そして、一つひとつの花が集まってこの樹は、桜としての意味を持つ。」
と、拙作に書いたことなどを思い出すも、楯四郎という匿名作家も、
「この花びらの一枚でしかない」
のです。
そうした、調査の報告を、こんどの、「菫太郎論集」でしようと、もっか、菫太郎センセイの原稿を入力中ですが、その間にも引き合わせている資料から、新たな事実? が発見され、研究者のご苦労、いかばかり、となっています。
九月朔日。
月頭の計。
願わくば、早々に「入力」を終え、後出した「事実?」は、つぎの機会へと、その入稿前準備を進め、月中にはことなきを得たいものです。