何処

月中と月末の日曜日は、その午前中を「社」に縛られることになり、そうした、「縛」りがあると、不要不急の何かが無性にしたくなるのは、昔も今も変わりません。

お盆も終わり、八月も半分を過ぎたところで、なお、続く暑さには、でも、終わりがないかのように思えます。

それは、「終わらない夏」への希求であるかもしれず、そうした、相半ばする気持ちを持て余しがちなのも、この時期特有の「何か」なのだろうと、快適には違いない室内の空調を気にしていること自体、「何か」を「持て余し」ているのかもしれません。
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そんなさなか、同僚から届いた「残暑見舞い」には、

 

「あの日は、まだ夏に対するワクワク感がありましたが、いまは夏特有の気だるさが漂いはじめています。」

 

とあって、末筆に、日付と時間が記された葉書から、同僚もまた、「「社」に縛られ」ているさなか、「不要不急の何かが無性にしたくな」り、その「何か」に対する回答を、無意識の裡(うち)にも、誰かに求めているかのようです。

これも、「無意識の裡(うち)に」開いた、中井英夫『虚無への供物』のページは、

 

……紅司さんの死因、当ててみようか、ガスでしょ?」

「ガス? どうしてさ」

 

とワトソンよろしく光田亜利夫(みつだありお)が、シャーロキアンの奈々村久生(ななむらひさお)に対する場面。

先週末の連休初日に出向いた、これも、今週末に催された、高円寺・vintage book laboのスピンオフ? 「高円寺200円均一古本フェスタ」で買った、講談社文庫の初版には、そうあります。

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戦後の「三大奇書」の一冊である、この推理小説は、二十代の頃に読み終えているはずですが、幾度か再読し、その都度、読みおおせぬままに読みさしたソコが、どの辺りであるのかとの当りをつけて、読み始めるも、初読以降、座礁を続けています。

それはさておき、「何処(なにか)」です。

当の中井からしてが、

「香りは〃かしこ〃にのみあり、ついに〃ここ〃にはない。」

といい、また、香りを、「小説に生かすことなどいいかげん諦めればいいようなものだが」といっては、『とらんぷ譚』や『蘇るオルフェウス』など、「匂い」を、そうした、推理小説のトリックに用いていることからも、その腐心のほどがうかがえます。

そんな、中井のひそみにならえば、私の場合、

夏は〃かしこ〃にのみあり、ついに〃なにか〃もわからない。

とでもなるのでしょうか?

残暑厳しい季節の始まりを前に、その午前中を「社」に縛られ、不要不急の「何か」を、書き留めるべく、いま、ブログを書いています。

宿題は、涼しい午前中のうちに、とは、今は昔のことですね。

おしまい。

猥本

蕎麦数彦さんの新作、『包羞忍恥』を読みました。

花丸勇作という、ガチムチ、ゴウモウ、ホウケイの青年が主人公で、絵画教室のモデルを頼まれたことから、性癖を自覚・回想し、少年期に出会った、ふたりの同性、ひとりは空手塾の師範、ひとりは空手部の先輩と、花丸を含めた、それら、体育会という名の下剋上社会のなかで、煩悶しつつも、その性癖を開花させていく、といったテイの成長物語です。

さらに、物語は、社会人となった花丸の上に、その上司や部下をも巻き込み、開いた花の爛熟を見せますが、そうした、花丸の「性癖」によってもたらされるのは、何も、「羞」や「恥」ばかりではない、ということを、それらの語義をもって、これまた、自覚し、やがて、本当の愛を開花させるのです。

というのが、私が、本作から促された、「さわやかな啓蒙」ですが、そのことは、作者の意図とは明らかに違う次元での読み、であるとの反省を促されもしました。

なぜなら、『包羞忍恥』は、「成人向けゲイ小説」であり、平たくいえば、ポルノなのです。

 

「こうしたポルノグラフィーが、性神話(セックス・ファンタジー)の名のもとに書かれていることにおいて、とりもなおさず、それは、男根中心の神話であり、「エロ」本とは「相手のない」「刺激にすぎない」「孤独なものであって、その孤独なものがたまたま二者でもって、……すり合わせをおこなうわけ」なのだから」(菫太郎「作者は誰?」)

 

つまり、シコれる! とのそれが、こうした、「ポルノ」に対する最大の賛辞なのです。

性神話(セックス・ファンタジー)のヒーロー、「花丸勇作」は、また、「ガチムチ、ゴウモウ、ホウケイ」といった、斯道(この)世界における、三種の神器の保持者であり、このことは、

 

「ほんとうにこの世界で、肉感以外の感動はみんな嘘でしょうか?」(三島由紀夫「禁色」)

 

と尋ねる『禁色』(ホモ文学の古典!)の主人公、南悠一のそれに、本作を読んだあとでは、「諒(りょう)」というよりほかはないでしょう。

と書いたところで、私は、何も、「この世界」に存在する、「感性の密林」の全容を明かしたいわけではありません。

「本作から促された、「さわやかな啓蒙」」が、「作者の意図とは明らかに違う次元での読み」であることの、それを感じざるを得ない、「肉感(フェチズム)」や「擬音(オノマトペ)」に対したとき、「理性」という名の鉄壁を感じたのは、そうした「性癖」が、もとより、私にはない(スリキン・サイモウ・ズルムケ ◎)からであり、同じものを愛する、エゴイストの愛情の公理を、そこに見出すことが出来ないからなのです。

ようするに、わたしには、帰省中の長い車中で、ひと目を憚らず、蕎麦数彦さんの「ポルノ」を読む、自信がありました。

しかし、その復路で、終盤に差し掛かった物語の一文を目にしたとき、私にも来すリビドーのあることを、感じてしまったのです。

 

「花丸と沢良木は求め合った。もう何度目かもわからなくなった射精の後だった。」

 

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というそれです。

思えば、私のヰタ・セクスアリスは、中井英夫の「炎色反応」を読んだ、十代の頃に始まります。

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どうやら、私の「肉感(フェチズム)」は、追憶の明確さのほうにあるらしいのです。

欲望による喚起力も、その性欲的生活も、こうした、「追憶」によってもたらされる、といえば、ロマンチックに過ぎるでしょうか。

それはさておき、「猥本」です。


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「私のヰタ・セクスアリス」は、さらに、廣橋梵(龍膽寺雄)の「閨鬼」と、作者不詳の「猟奇倶楽部」を読んだことに続きます。

ことに、「作者不詳」の作者像を、谷崎潤一郎とする私の妄想! は、主人公、ジョンが、二十四歳の設定で、作者は当時、二十五、六歳であり、一九二五年には三十一歳で、その青年期が、大正期と重なっていることにあります。

そこから生年を割り出すと、明治二十七年となりますが、当の谷崎の生年は、明治十九年ですから、本作の、江戸艶本のなごりをとどめる台詞回しや、すべてがブキッシュである点から、あるいは、もっと上であるかもしれない、とするこちらの推察にも合致します。

ともあれ、想像し得る作者像としては、換骨奪胎の才があり、演劇に関わり(谷崎が大正活映のために、『アマチュア倶楽部』を書き下ろしたのは大正九年)、地誌類を原書で読み得る人物と見ますが、どうでしょう。

「蕎麦数彦さんの新作、『包羞忍恥』を読んだ」感想が、はからずも、「私のヰタ・セクスアリス」を語るハメになろうとは。

が、ゆえに、本作が、正しく「猥本」であることの道義を、語ってもいないでしょうか。

おしまい。

 

*文中、蕎麦数彦さんの『包羞忍恥』より、本文ページの一部を転載させていただいたことを、付記します。

 

 

 

 

 

 

 

逗留

菫太郎センセイからの、最後のFAX送信を待つ間にあった、LINEの着信。

スマホの表示を一瞥すると、いよいよ送られてきた、センセイからの原稿に、意識を向け、結局、LINEの返信は、後回しになりました。

「深刻な内容じゃなくてよかった」

と翌日、対面したタイミングで、内心を伝えたからには、こちらも、許容オーバであったのかもしれません。

「深刻な内容」だったら、会うまでの時間、それを抱えていられる、自信がなかったから。

とはいえ、炎天の下(もと)に出て行くくらいな許容はあって、会うなりお互いがいちげんさんになる、「スーローフアン」という名のお店で、「牛肉のヨウポー麺」をいただき、GWに会って以来の邂逅を、横並びのスツールで叙すと、そのときにした話の続きをするかの気安さで、酷暑の三時間は、またたく間に過ぎていきました。

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「フランク・ロイド、なんだっけ?」

「ああ、ライト」

「それの弟子が建てたのがあの講堂ね」

と、カフェする名目で向かった、「自由学園明日館」を観覧したあとでの知識とおぼしい返答に、これも、GWの散歩の途上で出くわした、「御幸」との文字に、

明治天皇御幸、何て読むの?」

「みゆき」

と伝えたことなどを思い出しました。f:id:sumiretaro:20240728102517j:image

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ようするに、ひとに恃(たの)む素直さが、その誘いに応えようと、こうして、対面し、

「深刻な話じゃなくてよかった」

などとの内心を伝えさせるにいたるのです。

とはいえ、東京のなかの異国ともいえるお店でのランチから、これも、都心にありながら、設計者、フランク・ロイド・ライトの魂、ないしは、それに共感した者たちとの、自然な語らいを可能にする空間での、内省の旅は、こちらの都合とはいえ、短くも濃い逗留であり、炎天下ゆえの静けさに満ちた、夏のひとときでもありました。

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老朽

先の記事、「老齢」に引き続き、「老朽」です。

数えで15歳になる愚猫(愛猫)が、獣医の診断により、晴れて「お年寄り認定」を受けたことは、先の記事の通りですが、これも、とき同じくしてあった、不動産からの電話に出ると、こんどの更新に際し、

「建物老朽化につき、取り壊し前提で、契約する旨」

促されました。

二年ごとの更新を繰り返し、転居十年目にして言い渡されたことながら、卑近の「老」が重なり、これも、我が身の上に照らすと、何とも、複雑な心境ですが、猫も住も、「朽」ちるまでには、まだ、その猶予もあるでしょう。

とはいえ、オーナの土地であれば(土地買収の金利に追われることもない)、「老朽化」などと衒(てら)わず、取り壊しのうえ、新築したほうが、都心(の一等地)の地価が高騰している昨今、その利幅も大きいというものです。

などと他人事でいられるのは、土地に縛られることのない、貸借人の利点でしょう。
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そんな最中(と安易に)に目にした、

「ラシントンパレス(ハッテン場 w)物語」(そこ!?)

雑誌『薔薇族』(復刊第1号)に掲載された記事の時点(2005年)で、この建物の築年数は、45年であり、

「ああ、やっぱ、そんなもんか」

と、「我が身の上に照ら」し同感したものです。

(記事の内容に触れないんだ!?)f:id:sumiretaro:20240623112212j:image

不動産から届いた、「契約更新書類」には、「築40年」とあるけれど、始めに契約した別の不動産のそれには、「昭和49年竣工」とあったから、まあ、10年の誤差とて、建物レベルでいえば、許容なのだろう…か?

「いやいや、直下型のデカいやつが、一回でも来れば…」

などとの疑問も残りますが、どうでしょう。

それはともかく、「『薔薇族』(復刊第1号)」です。

1971年の創刊から、ちょうど一年になる、それの「九月号」(通巻7号)を手にして思ったことといえば、充実した「記事」の内容であり、そこから、十年を閲(けみ)した100号に至っても、巻末に掲載されている広告ページの厚さは、全体の1/5にも満たず、この時点においても、「記事」の内容の充実をはかることが出来るでしょう。

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しかし、必要あって取り寄せた、30年前の『薔薇族』となると、「広告ページ」が半分弱で、そこから、十年を閲(けみ)した「復刊第1号」(2005年)に至っては、全体の1/10にも満たない厚さであり、40、50年前のそれらとは、おのずとその事情も変わってきます。

そうした、『薔薇族』を断面から見ると、この雑誌の栄枯盛衰を、如実に知ることが出来(我ながら目線が斜めですが)、いつか、パートナーにいわれた、

「この建物大丈夫?」

とのそれは、まさに、「築50年」の建物の断面を見たことへの、率直な感想なのでしょう。

巨視とはまた、近視眼的なひとたちに浴びせる、冷水の謂いであるのかもしれません。

老齢

「猫は、自分のしもべと認識することと思います。猫という生き物は結構図々しくって、それがとてもいい感じです。」(2010年8月10日、日記、コメントより)

先月、中止となった関西行

関西を同行する予定だった友達から、LINEがあり、タイミング良くオフ日だったその日は、だから、友達との会いが、関西から関東へと、後ろ倒しになった具合。

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友達が自由になる頃合いをみて、神田・学資会館の紅楼夢(中国料理)で、遅めのランチ。

折しも、その間、不調だった愚猫(愛猫)のことを、食事のあとのデザートをいただきながら話したのは、冒頭の「コメント」を友達からもらった、それの経緯によるけれど、愚猫(愛猫)と出逢った日のことを書いた日記(ミクシィ w)から、15年の月日が流れていたことを、これも、その間の付き合いとなる友達を前に、しみじみ、思ったものです。

「いつか、猫の介護について話してたでしょ? 土曜の夜に様子がおかしくなったうちの子を、日曜の朝、近所の獣医に診せたら、神経痛といわれて、いよいよ、お年寄り認定か! と、「介護について」自覚させられたよね」

と話したあとで、

「猫もわかってるから」

との友達のそれに、採尿の間(モニターを頼りに、膀胱から注射器で採取)も、両腕を上げられ、私の掌と顎にホールドされたそこから、鳴き声の一つも立てずに、じっとしていた愚猫(愛猫)の思慮を、思ったものでしたが、

「まあ、薬だよね。結局、生すも殺すも「薬」しだい。地獄の沙汰もカネ、、、ってやつね。ハハハ」

などとの愚答を、この「介護」の先輩に話しながらも、夜まで自由時間の友達を、神田とは目と鼻の先の銀座に案内し、無印良品鳩居堂カフェーパウリスタ伊東屋と、卑近の場所にありながら、そうした、ウィンドウショッピングが、非日常のことと思えたのは、インバウンド需要に沸く、かの地であることのほかに、友達の個性的な人柄のゆえでもあるのでしょう。

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「女給(とはいってない、たぶん)に聞こえよがしに、そういうこと話すの好きなんだよね。イヒヒ」

「ホモネタか」

と私。

「ディナも一緒する?」

地元駅近くから夜行バスに乗って(引率ゆえ、大人げない交通手段 w)帰る友達を、みんな大好き「サイゼリヤ」に誘うと、グラスワインで、乾杯。

さらに、饒舌となった、友達から聞いたそれが、個人的には、ツボでした。

「語録とは、そうした公共からの「個人的」な関心事を採集し、後世に伝えるものじゃなかったか。といって、平均年齢75歳の腐女子たちのそれ。いつか、「大婆村(ダイバーシティ)語録」としての刊行を乞う。」

と思ったものですが、我々も大差はないでしょう。

何せ、愚猫(愛猫)を、ケージにいれ、近所の獣医に連れて行った、日曜(朝)・月曜(夕)以降、つまり、友達と会った翌日から、背中に覚えた違和感(痛みというほどではないが)を、やめればいいのに検索すると、

「肋間神経痛?」

いまは、すっかり、治まってはいるものの、私にも来た、「お年寄り認定か!」

といったところです。

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萬書

「本物なら、こんな値段じゃ買えないでしょ」

「そうですよね」

と、某古書店の出店棚の前で交わされている、老年と中年の会話を小耳に挟みつつ、「本物」との老年の認識に、はて? と思いました。

おそらくは、共箱帯付の完本を「本物」といい、それに対する中年との間では、あるいは、「完本」=「本物」との認識が、まかり通っているのかもしれません。

「九鬼紫郎『若衆七変化』、イチキュッパ! いい値段(高額)だね」

と「共箱帯無」のそれを、棚に戻しつつ、でも、老年のいう「本物」だったら、その相場は、いかほどのもんなんだろう? と漠然と思ったりもしました。

そんな付帯情報を、会場の各出店棚の前で交わされている、老年と中年、はたまた、青年同士の会話のうちにも、小耳に挟みながら、毎週末(金曜・土曜)開催されている、いつもの古書展とは毛色の違う、その名も、「萬書百景市」に参加しました。

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ちなみに、「某古書店」というのは、荻窪に店舗を構える「盛林堂書房」さんのことであり、春秋の神田古本祭り、および、こうした「毛色の違う」古書展では、その出店棚の前にひとだかりが出来るほどの、人気店です。f:id:sumiretaro:20240609091755j:image

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ところで、このたびの買物の一つに、ルイージ・マレルバの『プロタゴニスタ奇想譚』があり、このひとに、『皇帝のバラ』という、古代中国と思しき帝国を舞台にした、幻想掌篇集があって、幻想譚とは相容れない下世話な、でも、そのことが作家の個性になっているかもしれない、私の裁量権では、作品の良し悪しを判断しかねる、それの「裁量」を、このたびの、『プロタゴニスタ奇想譚』を目の当たりに、広げられた気がしました。

「そういうことだったのか!」

と。

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ほかにも、松田修の『非在への架橋』から、唐十郎の『少女と右翼』へと飛び火した購買欲は、棚・台下の木箱に背差しではいっていた、詩誌『詩世紀』主宰、服部嘉香(よしか)の処女詩集『幻影の花びら』を手に取らせるまでに、エキサイトさせてくれもした、このたびの「市」であり、「祭(フェス)」でした。

ゆえに、「毎週末(金曜・土曜)開催されている」古書展とは、客層も違い、それの常連客にとっては、自身のなかの「萬書」あたわざるものが、あったかもしれません。

以下、購入品です。

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そして、新しい古書展を、私なりに堪能しました。

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冊子

TRC(東京流通センター)で最後となる、「文学フリマ」。

そして、はじめての有料制につき、その日を刊記(記念)とした、『作者は誰? 菫太郎論集』も、新刊との売込み&少部数とあって、残り半分となりました。

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これには、

「「小ロット」、単価割高かもだけど、売れたら御の字だし、再版もしやすい。この「小ロット」というフラット? な概念が、未来に希望をつないでくれたんだ。(な、おおげさ)」

との思惑があり、さらに、

「「塩漬け」になっても、はければ御の字、気長に行こうや! の土の時代は、終わりましたので。笑」

とこんどの「文学フリマ」の会場となる「東京ビッグサイト」への抱負もあって、そうした、「フラット?  な概念」をとることにしました。

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筆者の菫太郎さんいわく、

抜き刷りのような、まあ、いまでいうところのサブスク?」

を、総ページ数48の冊子で試みたかったとのことでした。

ところで、この「48」ページとは、

「…から四十八ページ以内で背表紙がないこと」

という、「カストリ雑誌の広義の定義」らしいのですが、なるほど、「カストリ雑誌」といえば、仙花紙。

本紙は、再生上質紙で、表紙は、クラフト紙ですが、「背表紙」はあって、これは、書物としての「定義」ですから、そこは、印刷所の技倆に托むこと(背幅1.5ミリにタイトルをいれる)にしました。

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そんなわけで、「冊子」です。

「菫太郎センセイの「真筆、楯四郎」(『作者は誰?』所収)で、そのかみの楯四郎の心境(青白い街灯の下で、私は雑誌を開いた…)に迫るべく入手した、初期『薔薇族』。何より中綴の冊子であることに驚き、…」

とは、本稿で取り上げられている、楯四郎の「生まれて初めて書いた物語」、『弁天小僧暗闇描画(べんてんこぞうやみのうつしえ)』が巻末に掲載された、『薔薇族』(隔月刊)7号(1972年9月刊)を手にした印象であり、この巻をもって、1971年の創刊より一年を迎えた、記念号でもありました。

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ちなみに、本稿では、「薔薇族創刊百号を迎え」るまでの、十年の来歴を、編集長、伊藤文学と、編集者、藤田竜との、対談のうちに、その前史が引かれていて、

「そういえば、入手の『薔薇族』7号に、「第二書房」から刊行された、「「アブノーマル」ものの性書」群の広告があったな」

と、これも、手にしてわかった論より証拠でした。

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すなわち、

「そうした「アブノーマル」性書が、多数刊行されるなか、「五千人から一万人ぐらい読者をつかんでいましたからね」と、『薔薇族』の創刊に際し、伊藤が感じた手応えの根拠」

の一つを、この目で確かめた、というわけです。

さらに、『薔薇族』7号には、三島剛の画集『若者』の広告があり、いまや、市場での価格が予価の百倍以上となっていることなどを知り、これも、「若者」を撮った、本邦ではじめてとなるメールヌード写真集、『脱いだ男たち』の広告など、はじめて手にした「初期『薔薇族』」は、一粒で何度も美味しい冊子でした。

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ところで、編集長、伊藤文学は、「みんなが幸せに 創刊一周年あれこれ」のなかで、「二度と警視庁に呼ばれることがないように。続けることの方が大事なのだから」と前置きし、『脱いだ男たち』への「読者諸君」からの反応が、芳しくないことを挙げ、f:id:sumiretaro:20240602100605j:image

「まんなかのあのトクホン(湿布薬)の広告のような邪魔なもの。あれには読者も興をそがれたようで、不満の声しきりでした。」

と記し、

「時代がかわらなければどうにもならないことなのだから」

と「読者諸君」への申しわけを、そう記してもいます。

そうした、私自身の代弁であるかもしれない、「不満の声」を、「時代」がかわったいま、SNSに、所持する本書の「まんなかのあのトクホン…のような邪魔なもの」でマスクされたそれを、写メ w してフィードしてみたところ、イーロン・マスク氏から w 、

「センシティブな内容が含まれている可能性があるため、このポストに警告を表示しています」

とのエクスキューズを、ご丁寧にもいただき、「あれから50(40)年」と某漫談家の面白くもないそれを、むしろ、そうした、個人の判断に委ねられている、責任(自己責任という無責任なことばがキライ!)のうちに痛感しました。

果たして、このことが、良いことなのか悪いことなのかは、わかりませんが、これも、たまさか目にはいった、写真家、波賀九郎(葉賀九郎と表記)のグラビアに、私自身の「不満の声」に対する回答を、奇しくも、50年前の先達から、得られた気がしました。

「強健な裸身とて、自然に曝されれば、謙虚に見えるもの。 w それが摂理だろうに、「トクホン」を貼るとは、言語道断。不自然このうえない。曲解との所以(ゆえん)であり、そうした意思が働くことで、なべてのものが醜くなる。推して知るべし。💀 (ま、いまだからいえることだけど)」

と下記の画像(作家自身のレタッチ? (葉賀九郎「恍惚の人」))で、回収出来た気がします。

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